[特別インタビュー]MAO RINKオープンに寄せて
「フィギュアスケートに人生を捧げることが自分の使命」と語る浅田さんの新たな舞台、MAO RINK。メインリンク、サブリンクはすでに営業を開始しており、スケート教室やレストランなども順次オープン予定。このMAO RINKにはたくさんの夢と笑顔が詰まっている。
MAO RINKへの思いを語る浅田さん。
スケーターとして表現者として今が一番いいかもしれない
──今日は2024年11月にオープンした、立川にあるMAO RINKでファッション撮影をしていただきました。リンクサイドなどでの撮影はいかがでしたか?浅田真央さん(以下、浅田)すごく楽しかったです。普段あまり着られないような素敵な服を着て、豪華なジュエリーを身に纏えたので、テンションが上がりました。しかも、MAO RINKでの撮影でしたから。
──スケートへの思いや34歳になられた浅田さんの、これからについてなどをお聞きしていきたいのですが、まずは17年4月12日の現役引退記者会見。あの日から約8年の間に、『浅田真央サンクスツアー』、『BEYOND』、『Everlasting33』というアイスショー3部作で日本全国を回られました。毎回新たな挑戦をされていて、その進化と深化に驚きます。浅田 『Everlasting33』を終えたとき、自分でも新たな挑戦も進化も、まだまだしていけるんだろうなという境地になりました。完成域に到達することはないんでしょうね。
──現役時代以上に魅せられます。浅田 スケートの表現の幅は広がったかなと思います。経験してきたことすべてが表現に繫がっているのでしょうね。現役時代から考えても、スケーター、そして表現者として今が一番いいかもしれません。
24年6月に公演した『Everlasting33』で、ソロでは初めてラヴェル作曲の「ボレロ」を演じたのですが、スケーターなら誰もが憧れる有名な楽曲なので、自分が滑っていいものかと恐縮する気持ちがどこかにあったんです。でも、「ボレロ」を通して今の自分を表現しようと決意し、姉に振り付けを頼んで一緒に取り組みました。ほかの方が滑っている「ボレロ」はあえて見ずに、自分なりのインスピレーションで作ったのですが、幼いときに学んだフィギュアスケートの基本のコンパルソリーから始まった、これまでのスケート人生のすべてと思いを盛り込んで表現できたと感じています。
──今、スケートは楽しいですか?浅田 楽しいです! スケートは極めようとすればするほど深くて学びが尽きないのですが、とても楽しいと思っています。
──スケートがつらい時期もありましたか?浅田 引退を決めた頃はスケートと向き合うのがつらかったです。それまで辞めたいと思ったことはなかったのですが、心身ともに限界が来てしまい……。サンクスツアーでも「人生で一番大変」と思うくらい悩みました。現役時代は自分自身や演技と深く向き合ってきたわけですが、ショーとなるといろいろな人たちが集まって作り上げるものなので。
──環境がまったく違いますものね。浅田 初めてのことばかりで大変でした。でもいろいろな経験を乗り越えてきた今、当時を振り返るとどれもそんなに大したことではなかったのかもしれない、と思えるようになりました。人として、学ぶことも多かったですし。そう考えられるということは、少しは成長している証なのかもしれません(笑)。
──そのほかにもつらいことがたくさんあったと思いますが、その都度どのような心持ちで向き合われてきたのでしょうか?浅田 11年に母が亡くなったときがやはり一番つらかったです。それはもう本当に……。自分の人生がそこで終わったと思うくらいつらいことでしたが、何とか乗り越えてきました。母が亡くなったからこそ、強くなれた面もあるのではないかと今は思っています。スケートを通じて、予期せぬ困難が降りかかってきたことも何度もありました。でも、それは乗り越えられるから起きる出来事。そして、すべてのことには意味があると思っているんです。
──試練の局面で支えになってくれたのは?浅田 それはやはり、姉である舞さんです。姉がいなかったら、私は今フィギュアスケートを続けられていないと断言できます。『Everlasting33』も、恐らく滑りきれていませんでした。アドバイスも的確ですし、それぐらい支えてもらっている実感があります。お互いに助け合い、ここまできました。私にとっては本当に大きくて、大切な存在です。
メインリンクの観客席。

入り口を飾る波のモニュメント。