〔連載〕80代、現役女医の一本道 51歳で東大を離れ、東京水産大学(現・東京海洋大学)の教授に。更年期症状に苦しみ、仕事にも自信をなくしかけていたその先に待っていたのは、まったく新しい世界でした。それは「性差医療」という分野です。人生の坂を上りきったと思った瞬間、実は本当のスタートラインに立っていたのかもしれません。
第6回 人生を変える出会い

撮影/鍋島徳恭
天野惠子(あまの・けいこ)1942年生まれ。内科医。医学博士。東京大学医学部卒業。静風荘病院特別顧問。日本性差医学・医療学会理事。NPO法人性差医療情報ネットワーク理事長。性差を考慮した女性医療の実践の場としての「女性外来」を日本に根づかせた伝説の医師として知られる。82歳の現在も埼玉県・静風荘病院の女性外来で診療にあたっている。
53歳、52歳、45歳の3女の母。
重い更年期症状で論文が一本も書けない!
留学、結婚、出産を経て、31歳のときに東京大学医学部附属病院の第二内科で、医局員の職を得ました。ただし、「医師の夫を持つ既婚女性」という属性ゆえ、9年間無給の待遇に据え置かれたままでした。その後も、「女性」であることを理由に推薦が得られず、助教授になる道も閉ざされていました。
しかし、それ以上に苦しめられたのは強烈な更年期の症状でした。
私は50歳のときに子宮筋腫を摘出した際、予防的に卵巣も全摘し、いわば外科的な閉経となりました。これをきっかけに、強い冷えやしびれ、疲労感、関節痛などさまざまな体調不良に悩まされ、医師としての仕事に支障をきたすようになりました。
特にこたえたのが、記憶力の低下とブレインフォグ。元来、手帳いらずの記憶力のよさが自慢だった私ですが、常に頭にもやがかかったようで集中力は落ち、論文は一本も書けなくなりました。
会合予定のダブルブッキングなど、自信を喪失する出来事がたび重なり、医師としての自分を見失い、「ここにいても仕方がない」と東大を去ることに。人から見れば「失意の転身」かもしれません。
けれど、今思えば、あのときこそが私の人生の転機でした。抗わず、流れに身を任せたからこそ、新しい扉が開いたのです。
女性は男性の縮小版ではない
1999年、56歳のときの日本心臓病学会のシンポジウムでの発表が、すべてを変えました。私は40代の頃から、女性特有の疾患や症状があることに気づき、女性のデータを集める必要性を強く感じていました。
当時の医療は、女性を「男性の縮小版」と見なし、臨床研究や治療の多くは男性を基準に組み立てられていました。しかし、心筋梗塞の発症年齢や症状、更年期症状の表れ方、骨粗鬆症やリウマチの有病率など、性差によって大きく異なることが明らかになりつつありました。
「女性の病気は男性とは異なる。それを無視して男性基準の医療を続けていては、本当の治療にはならない」。当時から私はそう訴え続けてきましたが、東大時代は「また女性の話か」とまともに取り合ってくれなかったのです。
けれどあの日、会場からは思いがけない拍手が起こりました。
「確かにそうだ」「一緒に研究しよう」。男性医師たちの反応が変わった瞬間でした。これが日本初の女性外来設立へと繫がる大きな一歩となったのです。
医療を変えた女性たちの連帯
このとき、キーパーソンとなる3人の女性たちとの運命的な出会いが追い風となり、日本初の「女性外来」誕生へのムーブメントとなりました。当時、参議院議員だった堂本暁子さんは、男女共同参画社会基本法の成立や健康政策にも積極的にかかわっており、「性差医療」に強い関心を示してくれました。
さらに、文化人類学者でジェンダー研究者の原ひろ子さん、元厚生労働省雇用均等・児童家庭局長の岩田喜美枝さんら女性運動の中心人物とも繫がり、彼女たちの後押しもあって性差医療への関心は高まっていきました。「女性の声を社会へ届けよう」と奮闘していた方々が、私の話に耳を傾け、力を貸してくれたのです。
2001年、鹿児島大学医学部附属病院に日本初の「女性外来」が誕生。これを契機に全国の医科大学や国立病院で次々と女性外来が設立され、ピーク時には500以上に達しました。
その後、千葉県知事になった堂本さんは、千葉県立東金病院に女性外来を設置。私は同病院の副院長となり、性差医療の実践の場として、思う存分取り組むことになりました。
女性外来は、女性の心身を総合的に診る医療。「男女で異なる病態に応じた診断・治療を行うこと」であり、こうしたうねりが女性医療の新たな地平を切り開いたのです。