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「夫がいる」が理由で無給だった医局時代も「つらさよりやりがいが勝った」と天野惠子先生

2025.12.12

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イラスト/上大岡トメ

〔連載〕80代、現役女医の一本道 東京大学で初めて女子の入学が認められたのは、1946年のこと。19人の女子東大生が誕生しました。私が入学した年の女子の割合はわずか2・5パーセント。東大卒の女性も女性医師も、当時はきわめて少数派でした。今なお男性中心になりがちな日本における女性活躍について触れてみます。

第5回 東大と女性活躍

撮影/鍋島徳恭

天野惠子(あまの・けいこ)
1942年生まれ。内科医。医学博士。東京大学医学部卒業。静風荘病院特別顧問。日本性差医学・医療学会理事。NPO法人性差医療情報ネットワーク理事長。性差を考慮した女性医療の実践の場としての「女性外来」を日本に根づかせた伝説の医師として知られる。82歳の現在も埼玉県・静風荘病院の女性外来で診療にあたっている。3女の母

東大医学部でがむしゃらに勉学に励む日々

私は1961年、東京大学に入学しました。現在では、医学部志望なら、最初から理科三類を受験しますが、当時は理科二類の2年の修了時に学部選択試験を受けてから医学部に進むシステムでした。私の代で医学部に進んだ女子学生は102人中10人。皆さんとても優秀で、進歩的な考え方の人が多かったですね。私は、「日本一の医師になる」という思いで、講義はすべて最前列で受け、とにかくまじめに勉学に励んでいました。試験前には私のノートのガリ版刷り(蠟紙に文字を刻んでインクで刷る複写印刷)が出回るほど。女性が少ないため、お手本となる女性の先輩も当然少なく、常に少数派の私たちにとって、自分の生き方は手探りで辿るほかはないと感じていたことを思い出します。

突然舞い込んだアメリカ留学のチャンス

卒業後は東京大学医学部附属病院に勤務することを希望していましたが、ちょうどその時期、東大紛争が激化し、病院は封鎖。同級生たちは職を求めて全国各地の病院へと散らばっていき、私も連携先の虎の門病院に在籍して紛争の終息を待っていました。

そんなとき、あることがきっかけでニューヨーク・インファーマリーという病院に留学する機会に恵まれたのです。この病院は、米国初の女性医師が貧民救済のために設立し、のちに女子医科大学へと発展したことで知られています。私は、進んだ医療が実地で学べるこのチャンスに意気揚々と飛び込みましたが、アメリカでの医療現場は想像以上に厳しいものでした。初日からいきなり病棟を任され、40人のアメリカ人の患者さんを担当することになったのです。言葉に関しては、大学入学後から英会話学校に通い、論文は英語で読み書きしていましたから、特に困ることはなく、専門用語にも問題なく対応できました。

循環器内科医になって患者さんを救いたい

現地の医療現場で驚いたのは、看護師が医師のサポート役ではなく、医師と対等に重要な役割をこなしていることでした。ICU(集中治療室)もすでに整備されており、日本との医療水準の違いを目の当たりにし、「日本の医療も変えていかなければ」という強い思いに駆られました。また、研修制度が充実していて、勤務の前後には毎日教授によるレクチャーがあり、理論と実践の両面から学べました。このとき大きな影響を受けたのが、総合診療医の存在です。

総合診療医とは、特定の臓器や病気に限定せず、患者さんをトータルでみる医師。身体的な問題だけでなく、社会的背景などを考慮して包括的に診断・治療を行います。


私は、総合診療の中でも特に難易度が高く、注目されていた循環器内科を専門にしようと決意しました。当時の日本では、心筋梗塞の患者さんが運ばれてきても、何もできないまま亡くなってしまうケースが多かったのです。医師として歩み始めた黎明期、この留学は貴重な経験となり、これをきっかけに臨床という果てなき荒野に進む覚悟が定まりました。

「環境に屈して諦めない。行動することで強くなる」

イラスト/上大岡トメ

イラスト/上大岡トメ

カナダで知った「選べる働き方」が心の支えに

アメリカ留学中に、イェール大学に留学していた東大同級生の脳外科医と結婚。夫のカナダのモントリオール大学への転籍を機に夫婦でカナダへ渡り、私はマギル大学の病院で研究生として勤務することになりました。

カナダの女性医師たちの働き方には、大きな衝撃を受けました。子育てをしながら働くのは当たり前で、朝10時から午後3時までの時短勤務、当直免除、復帰支援などの制度が整っていたのです。「結婚か仕事か」の二者択一、そして「働くなら男性と同等の長時間労働を」と迫る日本とは大違いでした。しかしその矢先、ケベック紛争(ケベック州の独立を求めた政治対立)の影響で帰国を余儀なくされました。帰国後、2人の娘を出産。3年間は子育てに専念し、医師の仕事からしばらく離れることになりました。キャリアは中断されましたが、海外の医療現場で学んだ経験が糧となって支えてくれました。

初の東大卒・女性・子持ちの医師として

31歳のとき、東京大学医学部附属病院の第二内科に医局員として入局しました。第二内科では、私が初の東大出身の女性医師であり、ワーキングマザーでした。

医局員は基本的に無給。週1~2日のアルバイトをしながら、数年で有給の助手へと昇格していくのが通例です。男性の同期や、私が指導していた後輩男性たちは次々と昇格していきました。しかし私は無給のまま9年も据え置かれたのです。私が既婚者であり、収入のある夫の存在がその理由でした。理不尽だと思いましたが、そうした男尊女卑がまかり通っていた時代でした。

医学界という男性の領域に女性が入ってくることを快く思わない人も多く、隠れたハラスメントは日常茶飯事でした。しかし、私は、差別や偏見と闘うより、まずは一人前の医師として認められるように経験を積むことのほうが大事だと考えました。患者さんファーストで治療にあたり、空気を読んだり忖度したりしない私を「ゴーイング・マイウェイの天野先生」という人もいましたが、そんなことはどこ吹く風。ストレスを真正面から受け止めず、「鈍感力」でかわすのが私流。不遇の9年間かもしれませんが、不思議とつらさよりもやりがいのほうが勝っていました。

というのも、この時期は日本の循環器医療が大きく進歩した時代だったからです。当時最先端の超音波検査(エコー)が初めて導入され、精度はみるみるうちに向上。日本にもカテーテル手術が取り入れられ、心筋梗塞は「治せる病気」へと変わり始めていました。

直属の上司には循環器の権威とされる医師の二大巨頭がおられ、お二人の背中を見ながら、日々進歩する医療の現場で学べたことは、何物にも替えがたい財産です。男性が持つよさ、女性が持つよさをそれぞれ生かし、力を出し合いながら、いろいろな人と協力していくことは、必ず医学や医療、ひいては社会全体の役に立ちます。個々人が持つ眠っている力を活用できれば、新しい発見があるでしょうし、世界をよくする方法を生み出せるに違いないのです。

◆今月の生きるヒント◆

どんなに大きな障害や困難も、揺るぎない強い思いがあれば、必ず乗り越えられる。信念は山をも動かす。



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連載「80代、現役女医の一本道」の記事一覧はこちら>>>

お知らせ

11月28日(金)セブンアカデミーで
天野惠子医師×君島十和子さんの
イベントを開催

テーマ「これからの人生がもっと輝く!女性が健やかに自分らしく生きるコツ」

日時●11月28日(金)14時~15時30分
料金●7700円 ※収録配信は2200円
会場●セブンアカデミー(市ヶ谷)
お申込みはWebで

この記事の掲載号

『家庭画報』2025年12月号

家庭画報 2025年12月号

構成/石井栄子

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