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医師の森田豊さんも「母の認知症を認めたくない息子」に。後悔が受容に変わるまで【私の介護体験】

2026.10.14

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つらくて不安なあなたに伝えたい「私の介護体験」第22回 昨年、母を見送った半年後に急性骨髄性白血病を発症。無事に乗り越え、元気を取り戻した森田 豊さん。一時は命さえ危ぶまれた壮絶な闘病は、森田さんの心境に、ある変化をもたらしました。後悔と反省の一色だった介護体験を、「あれでよかったのではないか──」と受け入れ始めたのです。前回の記事はこちら>>

病の母を前に僕は医者でなく息子だった。後悔を経て、今は“納得”へ

森田 豊さん(医師・医療ジャーナリスト)

森田 豊さん(医師・医療ジャーナリスト)

もりた・ゆたか 1963年東京都生まれ。秋田大学医学部卒業。東京大学大学院医学系研究科修了。97~99年、米国ハーバード大学専任講師。帰国後、埼玉県立がんセンター医長、板橋中央総合病院部長を経て現在に至る。テレビ朝日系ドラマ『ドクターX~外科医・大門未知子~』の医療監修を担当。2025年に急性骨髄性白血病を経験し“医師であり患者でもある”視点で健康情報を伝えている。著書に『医者の僕が認知症の母と過ごす23年間のこと』(自由国民社)など。26年秋、自由国民社より闘病経験を綴った新刊を上梓予定。

息子として発したひと言が、頑なな母の心を動かした

2025年1月、施設で暮らす97歳の母を看取った森田 豊さん。介護を振り返り、まず口にしたのは後悔と反省でした。なぜ早く専門医の診察を受けさせなかったのだろう、あまりにも危機感がなさすぎた──。

異変に気づき始めた1999年から、認知症と診断され薬による治療開始までに要した7年の間に、物忘れは進み、鍋を焦がす、最も親身に世話をしていた姉を泥棒呼ばわりするなど症状はエスカレート。

森田さんもただ手をこまねいていたわけではありません。超多忙な総合病院の部長職の合間に精神科のクリニックに連れて行き、大学病院で脳波やMRIの検査を受けさせもしましたが、母は肝心の認知症検査(長谷川式認知症スケール)だけは、いくら重要性を説明しても拒否したといいます。


当時、認知症は痴呆症と呼ばれていました。ネガティブなイメージが強く、MCI(軽度認知障害。早期に対策すれば正常に戻る可能性がある)の概念も存在せず、何より本人に病識がない──。

「“母親が嫌がるのも仕方ない。今まで苦労して家族を支え僕を育ててくれたのだから、好きにさせてあげたい”と医師らしからぬ感情が働いていました。詰まるところ僕は“母が認知症になった現実を認めたくない息子”でしかなかったのです」(森田さん)。

やがて母が振り込め詐欺の被害に遭い、一刻の猶予もなくなります。肚を括った森田さんが最後の最後に苦し紛れに絞り出したひと言が「僕のために検査を受けてください」──。その瞬間、母の顔色が変わりました。最終的に母の心を動かしたのは息子としての言葉だったのです。

「僕の幸せを第一に願って生きてきた母にとって、それはまさに琴線に触れた“マジックワード”。人の尊厳や感情に大きくかかわる認知症は、医学の知識や理屈で説得できるような類の病ではないことを学びました」。

森田 豊さん介護の足跡

感謝と褒め言葉を忘れず、施設のみんなに愛された母

認知症と診断され介護認定を受けると、ケアマネージャーの介入、介護サービスの利用と事態は動き始め、行き詰まっていた家族の日常に風が通り始めました。

介護施設にて母と(2019年)。母は最期まで森田さんを認識し、面会を心から喜んだ。写真提供/森田 豊さん

介護施設にて母と(2019年)。母は最期まで森田さんを認識し、面会を心から喜んだ。写真提供/森田 豊さん


2009年、症状の進行に伴い介護施設への入所を選択。当初は家に帰りたがった母も、2か月後にはすっかりなじみ、「食事がおいしい。レクリエーションが楽しい」と笑顔で話すようになったのです。「周りの方々に“ありがとう”と感謝し、“その服、素敵ね”など褒め言葉を発する母は、施設のみんなから愛されていました。そんな姿を見るのは嬉しい一方で、ここが終の棲家なのだと現実を受け入れたのかと思うと、かすかな胸の痛みを覚えたものでした」。

心に残る言葉
施設に面会に行くと母はいつも僕に、こういってくれた。

母「私は今、とても幸せ。あなたは私に会いに来るよりも、自分のことを第一に考えなさい。仕事ばかりしていないで、よく食べてよく寝て、健康でいなさい」

──短期記憶はなくなっても、「豊は多忙な医者」という昔からの記憶はしっかり残っていたのでしょう。「食事が一番楽しい。施設のみんなとも仲よし」と僕を安心させて、「私のことより、あなたは自分の健康を大事にしなさい」と僕を心配してくれました。そうはいっても、僕たちを見送るときの母の心中を思うと、切なくて、悲しくて、涙が止まりませんでした。

あれでよかったのではないか。すべては運命だったのだ

2025年、母が施設で穏やかに命を終えた半年後、森田さんに思いがけない試練が訪れます。急性骨髄性白血病──青天の霹靂でした。幸い末梢血幹細胞移植の経過が良好で年末に退院、現在は仕事にも復帰。大病を経験し、世話をされる立場になり、いっときは死を身近に感じた森田さんの心境に、ある変化が生じていました。

あれでよかったのではないか──。

診断が遅れたから母はぎりぎりまで自宅で好きなように僕たちと暮らすことができた。かといって施設への入所がもっと遅かったら家族は限界を超えていた。どんなに気をつけていても人は認知症にも白血病にもなる。すべては運命だったのだ。ならば無駄に抗わず、先を心配せず、今を淡々と、おおらかに生きるのも悪くはない──。

ただ一つだけ、森田さんには消せない後悔があるといいます。「母は同居の僕たち夫婦より姉を頼って頻繁に呼び出し、大きな負担をかけていました。優しい姉は何もいわず、僕は気づこうとしなかった。家族でもっと情報を共有すべきでした」。

少しでも介護中の方の役に立てばと、自らの体験と母への思いを包み隠さずに綴った著書(2022年刊)。

少しでも介護中の方の役に立てばと、自らの体験と母への思いを包み隠さずに綴った著書(2022年刊)。


森田さんは定例家族会議を開くことを提案します。問題が起きてからではなく、「月に一回」など定期的に家族で話す時間を設けるのです。「些細な困りごとや気がかりも定例会であれば話しやすく、早めの解決に繫がります。何より、家族が集まって親のことを真剣に話す時間自体が尊い。膠着状態が生じていても、家族で親の人生に思いを馳せ、何を大事に生きてきたかを探る中で、心を動かす“マジックワード”がひらめくかもしれません」。

介護と闘病で変わった3つの考え方

1.認知症は、別れを受け入れる準備期間
“ピンピンコロリが理想だったが残される家族の悲しみは計り知れない。母の認知症はゆっくり進み、それは僕たちが状況を受け入れ、別れを覚悟するのに必要な準備期間だった。

2.支えられることは弱さではない
人に迷惑をかけない生き方は美徳だが気をつけていても人は病気になる。誰かを世話することもあれば、誰かの世話になることもある。支えられることは弱さではないと思う。

3.提言。60歳以上に認知症定期検診を
病識がない家族に、認知症検査を受けさせる難しさを痛感した。予防には早期の診断・対策が何より大事。たとえば60歳以上の国民に、制度として認知症定期検診を行うのはどうだろう。

・連載「私の介護体験」の記事一覧はこちら>>>

この記事の掲載号

『家庭画報』2026年10月号

家庭画報 2026年10月号

取材・文/浅原須美

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