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西城秀樹さんの闘病を支えた妻の木本美紀さん。「秀樹さんは絶対にあきらめなかった」【私の介護体験】

2026.07.14

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つらくて不安なあなたに伝えたい「私の介護体験」第19回 “デビュー55周年”に向けて、フィルムライブを開催し、復刻アルバムも発売された故・西城秀樹さん。「彼は倒れたその日も、完全復活を信じてジムに通っていました。最後まで前を向いていました」と話す夫人の木本美紀さんに、家族が共に過ごした“絶対にあきらめない”闘病の日々を伺いました。前回の記事はこちら>>

秀樹さんは、絶対にあきらめない人。復活を信じ、闘病を支えた日々

木本美紀さん(故・西城秀樹さん夫人)

木本美紀さん

きもと・みき 1972年大阪府生まれ。近畿大学理工学部土木工学科卒業後、建設コンサルタント会社に就職。2001年に退職し、歌手・西城秀樹さんと結婚。1女2男の母となる。秀樹さんとのなれそめから看取り後までを綴った著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』(小学館)はベストセラーに。西城秀樹さんオフィシャルサイト https://earth-corp.co.jp/HIDEKI/
撮影/五十嵐美弥

「絶対に治す」。強い意志でブラジル公演は大成功

2003年に“脳梗塞で緊急入院”と報道された後も、西城秀樹さんは早々に仕事復帰を果たし、コンサートで全力のパフォーマンスを繰り広げました。18年に届いた訃報に世間は驚かされましたが、マスコミに公表されていた病歴はごく一部。実際は下に示すように01年に最初の脳梗塞を起こして以来、何度も再発や新たな病気の発症を繰り返していたのです。

闘病の足跡
なかでも大きな試練は11年末に見つかった脳梗塞でした。発音しにくくなる構音障害と右半身麻痺という日常生活に支障をきたす後遺症が、このとき初めて長く残ったのです。数日後に控えたディナーショーをはじめ年末年始の予定はすべてキャンセル。


「どれだけつらく、悔しかったか──。それでも『絶対に治すんだ』と、十円玉をつまんで持ち上げるといった地道なリハビリを根気よく続け、翌年8月には私たちの心配をよそにブラジル・サンパウロでの公演を大成功させたのです。相当嬉しかったのでしょう、ドバイの空港でのトランジットでは杖なしでかなりの距離を歩き、ショッピングも楽しんだみたいです。『莉子(長女)の靴のサイズを教えて』と国際電話で聞いてきましたから」(木本美紀さん)

2015年、60歳の誕生日を祝う還暦ライブでの一コマ。体調不良を全く感じさせない堂々のステージだった。写真提供/木本美紀さん

2015年、60歳の誕生日を祝う還暦ライブでの一コマ。体調不良を全く感じさせない堂々のステージだった。写真提供/木本美紀さん


その後も小さな脳梗塞を繰り返し、多系統萎縮症や、水の飲みすぎで血中のナトリウム濃度が低下する低ナトリウム血症を併発。意識障害やふらつき、転倒などの症状が出ましたが、主治医に「どんな治療やトレーニングで回復するか」と熱心に尋ね、完全復活への意欲を失いませんでした。

「治療やリハビリの効果が思うように現れず、楽屋で少し元気がない様子のときも、いざ出番が来てステージの袖に立つと背筋がピンと伸びて“歌手・西城秀樹”に切り替わるんです。ファンの方々の前で歌うことが彼のエネルギー源になっている──。プロ意識の高さを実感しました」

2005年、次男の悠天さんが生まれ、家族5人で軽井沢へ。この頃は日常生活も支障なく普段どおりに過ごせていた。

2005年、次男の悠天さんが生まれ、家族5人で軽井沢へ。この頃は日常生活も支障なく普段どおりに過ごせていた。

できたことに目を向けて「大丈夫だよ、パパ」と声をかけた

最も身近な存在だった美紀さんは、どのような接し方を心がけていたのでしょうか。

「意識的にではないけれど、いつも『大丈夫だよ、パパ』といっていた気がします。秀樹さんの口数が減っても普段と変わらず話しかけたり散歩に誘ったりして『公園を3周歩けたね』などできたことに目を向けていました。私自身が煮詰まりそうになったときは、ベランダに出て空を眺めました。新鮮な空気を吸い込むと“また頑張ろう”って気持ちが切り替わるんです」。

秀樹さんも美紀さんも、家族5人で一緒に過ごす時間を大切にし、車椅子が必要になっても国内外へ家族旅行に出かけました。亡くなる前年には、「気分転換にシンガポールへ行こう!」と。「コンパクトな町で移動の負担も少なく快適でした。父親になったのが遅く、一緒にいられる時間は短いから、子どもたちにできるだけたくさんの思い出を残したかったのだと思います」。

心に残る言葉
2018年、ジムに送る途中の車の中で、突然秀樹さんが後部座席から運転中の私にこういった。

秀樹さん「ありがとう、ママ」

──私は動揺して、「え? 急にどうしたの、パパ」と。もちろん日々のやりとりの中で、秀樹さんは何度も私に「ありがとう」といってくれましたが、具体的な何かに対してではなく、何の前触れもなくしみじみとこういわれたのは初めてでした。それは、倒れる1、2か月前のこと。もしかして、何かを予感していたのでしょうか──。若い頃から、コンサートのラストには必ず客席に向かって何十回も「ありがとう!」と叫んでいた秀樹さん。私が数え切れないほど耳にした「ありがとう」の中でもこのときの「ありがとう」は、特別でした。

倒れたその日もトレーニング。最後まで前を向いていた

子どもたちもそれぞれの方法で秀樹さんを励ましました。発声はリハビリになるからと、いきなり「『情熱の嵐』を歌ってみて」と迫る莉子さん。「え、今? このテンションで?」と戸惑いながらも従う秀樹さん。秀樹さんと美紀さんが近所の公園を散歩しているとき、長男の慎之介さんは少し離れた場所で、サッカーボールを蹴りながら父の様子をそれとなく気にかけていました。次男の悠天(ゆうま)さんは学校から帰ると秀樹さんも大好きな駄菓子をいくつも寝室に持ち込み、「パパ、どれがいい?」──。

秀樹さんが倒れたのは「同窓会コンサート」に出演したわずか11日後。ジムでいつものように“「YOUNG MAN」を完璧に歌って踊る”を目標に汗を流した日の夜でした。秀樹さんは、最後まであきらめず前を向いていたのです。しかし意識不明の状態は続き、5月16日に永眠。

「秀樹さんは周囲への気遣いが細やかで、誰に対しても大らかな器の大きな人。最近私はよく“秀樹さんだったらどうするだろう”と考えるようになりました。子どもから何か相談されて、つい否定したり愚痴っぽくなりそうになると、“二十歳を過ぎたんだから、やりたいことは自分の責任でやらせればいいんだよ”と彼の声が聞こえてきます。共に過ごした18年の間に私も少しは成長できたのかもしれません」

秀樹さん、驚異の3つのがんばり

1.2012年。重い後遺症を懸命のリハビリで克服
2011年末に大きな脳梗塞が見つかり構音障害と右半身麻痺が残りました。しかし、必死のリハビリの結果、12年夏にはブラジル・サンパウロでのコンサートを大成功させるまでに回復。

2.2015年。体調不良の中、「還暦ライブ」は大成功
還暦を祝うバースデーライブを開催。朝から体調不良で心配しましたが、ステージでは実に堂々たる姿を披露。この後、本格的な復帰を目指し、さらにハードなリハビリに挑戦し始めました。

3.2018年。倒れたあと、22日間、生き抜いた
「あと4日、持って1週間」の診断を大きく超えて22日間生きた秀樹さん。意識は戻りませんでしたが、病室で家族が語りかけ、一緒に過ごすかけがえのない時間を与えてくれました。

連載「私の介護体験」の記事一覧はこちら>>>

この記事の掲載号

『家庭画報』2026年07月号

家庭画報 2026年07月号

取材・文/浅原須美

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