つらくて不安なあなたに伝えたい「私の介護体験」第18回 「時間は残酷で、優しい。必ず別れを連れてくるけれど、悲しみを落ち着かせてもくれる」と話す渡辺真理さん。両親の介護を振り返り語られたのは、つらさでも大変さでもなく、穏やかで楽しい思い出でした。ささやかな陽だまりに向けられる渡辺さんの視線。介護のイメージが少し変わるかもしれません。
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寄り添えた時間が、これからの人生の支えに。介護と別れの中に“光”を見る
渡辺真理さん(アナウンサー)

渡辺真理(わたなべ・まり)さん 1967年神奈川県横浜市生まれ。横浜雙葉学園、国際基督教大学を卒業後、90年TBSにアナウンサーとして入社。『モーニングEye』『筑紫哲也NEWS23』などに出演後、98年フリーになる。テレビ朝日『ニュースステーション』に番組終了時まで出演。現在は、テレビ東京『知られざるガリバー』にてナレーションを担当。ウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』の「マリーな部屋」でお菓子のコラムを執筆。渡辺真理HP https://www.watanabemari.com/
父が倒れ、1年半の入院。母の決断で在宅介護へ
期せずして1998年は、渡辺真理さんにとって公私ともに節目の年となりました。入社9年目でTBSを退社しフリーランスに転身。久米 宏さん司会の 『ニュースステーション』を担当することに。その半年余り後、父が突然、小脳の脳内出血で倒れたのです。
運よく手術を受けることができ一命を取りとめましたが、誤嚥性肺炎を起こして気管を切開。脳外科の病院から総合病院に移り、入院生活は1年半に及びました。その間、母は「パパと一緒にいたい」と病院に泊まり込んで看病をします。
TBSニュース番組のお正月ロケ後に、自宅の庭で両親と(1993~95年頃)。写真提供/渡辺真理さん
「私から見てもとても仲のよい両親でした。手術室から出てきた父の足に触れて“パパ、パパ”と小声で呼ぶ母が、映画『禁じられた遊び』のラストで“ミシェール”と呼び続けて駅の雑踏に消えていく女の子の姿と重なって、父が逝ってしまったら母はどうなるのだろう、と心配でした。童女のようにふわふわしたところもある母ですが、家が大好きな父の退院に関しては、決断が早く意志も強固でした」(渡辺真理さん)。
仲のよい夫婦と家族だったことが伝わってくる写真。オーストリアアルプスへの、スキー旅行中の父と母(1963年)。
「家に戻るなら気管を閉じる必要があり、誤嚥性肺炎のリスクがある」と慎重な主治医に対して、母は「私が責任を持ちます。閉じてください」。
こうして父の在宅介護が始まった2000年は介護保険制度スタートの年。ケアマネージャーも手探りの中、日常生活全般に介助が必要な要介護5の父が穏やかに過ごせる日常を目指して、態勢を整えていきました。
温かさ、優しさ、おかしさ。ささいな“光”に敏感になれた
父の容態が急変したのは、在宅介護が始まって14年後の2014年2月。大動脈瘤破裂で、救急搬送先の病院でも処置できる状態ではありませんでした。母は気丈に振る舞い、涙を見せずに父を送り出しましたが、ショックと疲労は相当大きかったのでしょう、約3か月後に転倒して腰椎と胸椎を圧迫骨折。静養中に足腰が弱り、要介護5に。それでも父亡き後8年頑張り、自宅で眠るように息を引き取りました。享年90、老衰でした。
「私の夫が右手を、私が左手を握る中、目を閉じた母は“ふう”と穏やかにひと呼吸して旅立ちました。植物が枯れていくように、体を使いきり、命を全うする姿を間近で見せてくれました」。
20年以上に及ぶ両親の介護を振り返り、渡辺さんが語るのは苦労話ではなく、「父は幸い痛みを訴えることがなく、最期まで穏やかな時間を過ごすことができた。母はなぜかいつも前向きで、すべてを面白がる人」と肯定的な内容ばかり。
「寝ている父の手を触りまくりながら、母が“パパの手が大好き。こんなに自由にできて幸せ”っていたずらっぽく笑ったり。父が喜んでいたかどうかは別ですが(笑)。車椅子の母を乗せて鎌倉、葉山あたりをよくドライブしました。景色に声を上げて喜び、私に“疲れたら、運転代わるわよ”と──。本気なんですよね。できることとできないことの境目がぼやけてきた母も可愛くて」。
何げない日常の一コマだけれど、介護中心の生活ではささいな発見や喜びが普段以上に際立ち、いつまでも心に残るのかもしれません。
「私にとって介護は、陽だまりのようなほわっとした温かさや、見過ごしてしまいそうな優しさ、思わず笑ってしまうおかしさにも敏感になれる体験でした。すべての物事に光と影がある。影が濃いときほど、光を忘れずにいたいです」。
心に残る言葉
2014年、父が他界したあと母が私にいった言葉。
母「こんなに長くパパと一緒にいられて、私は幸せだった」
──父が在宅介護で14年間も頑張ってくれたのはおそらく母のためだったと思うのです。仲のよい両親で、父が逝ってしまったら母はどうなってしまうのだろう、と心配でした。でも、母は強し。そして、仲よきことは強さの秘訣。最後まで母を守った父。物事の、影ではなく光を見たがる母。どんな状況に陥っても、面白がる道、楽しむ道は必ずある──。それが両親からの学びです。 迷い、悩みながら、誰もが介護のカタチを編み出していく
渡辺さんは介護中の試行錯誤を“編み出していく”と表現しました。親が倒れたその日からいろいろなことが次々と起こる。迷って、悩んで、プロの知恵も借りながら決断して、反省したり、方法を変えてみたり。その繰り返しの結果、少しずつ自分たちに合う介護のカタチが作られていくのではないか、と。「だから介護のあり方はみんな違って、正解なんてどこにもない。けれど後悔も失敗も含めて編み出す過程は、そのご家族だけの唯一無二のもの。寄り添った時間の温かみが、これからの人生を支えてくれる気がしています」。
現在、ご主人と犬4匹、猫6匹と暮らす渡辺さん。「別離のつらさはわかっているはずなのに、命の危険がある子に出会うと放っておけなくて。人も動物も巡り合った以上、お互い命を全うするまで大切にし合いたいと思います」。
介護の中で見た3つの“光”
1.母の言動がおかしくて笑ったケアの最中に「痛い!」と叫んだ母。「どこが?」と聞くと、「痛くなる!」。「え、予言?」とヘルパーさんと大笑い。そんな何げない記憶と光景が、不思議と強く心に刻まれています。
2.介護スタッフと巡り合えたケアマネージャーさんもヘルパーさんも経験豊富な知恵と技の“宝庫。親子だと素直に聞けないことも、上手に間を取り持ってくれました。介護のおかげで出会えた大切なご縁です。
3.生を終えることが怖くない気もする体は消えても、私はいつでも両親を身近に感じ、話しかけています。いつかまた会える日が自分の人生の終着なら、老いていくこと、死ぬこともそんなに怖くない気もしています。
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