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「母への恩返し」と壮絶な在宅介護をやり抜いた松島トモ子さん。背景にあったのは命がけの引き揚げ【私の介護体験】

2026.04.07

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つらくて不安なあなたに伝えたい「私の介護体験」第16回 最期まで在宅介護にこだわり、100歳8か月の母を自宅で看取った松島トモ子さん。背景には、赤ん坊だった松島さんを連れて命がけで中国から引き揚げてきた母への恩がありました。70余年もの間、二人三脚で芸能界を走り続けてきた母娘が選び、頑張り抜いた一つの介護の形です。前回の記事はこちら>>

母は命がけで私を守り、支えてくれた。壮絶な介護は“最後の親孝行”

松島トモ子さん(俳優)

松島トモ子(まつしま・ともこ)さん

松島トモ子(まつしま・ともこ)さん 旧満州(現中国東北部)生まれ。母とともに日本に引き揚げる。4歳で映画界に入り、人気名子役として『鞍馬天狗』など約80本の映画に出演。雑誌『少女』の表紙を10年間一人で務め、童謡、ポピュラー、歌謡曲の歌手としても活躍。1964年、ニューヨークのザ・マスターズスクールに留学。帰国後、舞台、テレビ、ラジオ、講演など各方面で活躍。86年、テレビ番組のロケで訪れたアフリカ・ケニアでライオンとヒョウに襲われ、奇跡的に助かる。著書に『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』(飛鳥新社)ほか。

いったい何が起きたのか?95歳の母に突然生じた異変

青天の霹靂でした。2016年5月、母95歳の誕生パーティをなじみのレストランで開いたときのこと。この日のために自ら新調したアルマーニのスーツを着こなした母は、全国から集まってくれた知人たちに囲まれて幸せの絶頂……のはずが、どうも様子がおかしい。周囲の人の話を聞こうとせず黙々と料理を搔き込んでいるのです。

「心配になり、母に触れると粗相をしていました。このときを境に、賢くてお洒落でしっかり者のレディだった自慢の母が、急坂を転がり落ちるように激変していったのです。昼夜が逆転し、暴言を吐き、物を投げ、摑みかかってくる──。いったい何が起きたのか、現実を受け入れることができませんでした」(松島トモ子さん)。

ある日、松島さんは仕事に向かう車の中で過呼吸を起こし病院へ。過度のストレスによるパニック障害でした。40キロだった体重は短期間に7キロも落ち、「もう私一人では無理」と知り合いの民生委員に相談。地域包括支援センターに紹介してもらったベテランのケアマネージャーに支えられ、叱咤激励されながら、何とか仕事をやめずに介護を続けることができました。


松島トモ子(まつしま・ともこ)さん 介護の足跡

在宅介護にこだわった背景に命がけの引き揚げ体験が

後に判明した母の病名は「レビー小体型認知症」。レビー小体という特殊なたんぱく質が神経細胞の中に生じることが原因で、アルツハイマー型、血管性に次いで3番目に多い認知症です。症状は人によって多岐にわたり、母の場合は狂暴な言動や幻視が強く出るタイプでした。「“一緒に死のう”と包丁を持って私を追い掛け回したり、“トモ子に殺される!”と叫んで外に駆け出したり、お風呂から飛び出してきて“戦車、戦車!”と怯えたり。窓に映る車のライトがソ連軍の戦車に見えたのでしょう」。

心に残る言葉
「お昼はおそうめんでいいですか?」と、私が母に聞いたとき。

母「そうめん、怖い!」
──すべてを母に頼りきりだった家事も介護が始まってからは私がやらざるを得なくなりました。ある年の夏、母におそうめんを出しました。お年寄りには短く切って出さなければならないのに長いままゆで、しかもつゆは薄めず原液のまま―。母は口に入れたとたん「からい!」と叫び、おそうめんを口から吐き出したのです。マーライオンのように(笑)。翌年の夏、私がまたおそうめんを作ろうとすると、即座にその言葉が―。母には相当強烈な出来事だったのですね。介護の大変さは尋ねられればお話ししますが、普段は私、楽しかったこと、面白かったことしか思い出さないんです。


母の幻視は実体験に基づくもので、松島さんが在宅介護にこだわった理由にも関係していました。母は1944年に商社マンの父とともに駐在先の旧満州国奉天(現・中国東北部瀋陽)に移住。翌年5月に父は召集され、7月に松島さんが誕生、8月に敗戦、ソ連軍が進駐。母は乳飲み子を抱え、窓に黒い紙を貼った暗い部屋で息をひそめて過ごしました。

やがて日本への送還が決まります。顔見知りの中国人に“赤ちゃんを売ってください”と何度頼まれても断り、引き揚げ船内で乳幼児が次々と亡くなる過酷な状況の中、命がけで我が子を守り、日本に連れ帰ってきました。

そして届いた父の戦死の知らせ。「私たちは親一人子一人。ほかに頼る者はいません。母は私を全面的に支え、二人三脚で芸能の世界を走り続けてきました。私は、母にたくさんの恩があるから、自宅で過ごしたいという母の願いをどうしても叶えたかったのです」。

2016年、認知症発症直前の母と。レディでしっかり者だった自慢の母の様子がこの後に急変。まさに青天の霹靂だった。

2016年、認知症発症直前の母と。レディでしっかり者だった自慢の母の様子がこの後に急変。まさに青天の霹靂だった。

コンサートを客席で楽しんだ母。最期は抱き合って眠りながら

薬が効き始めると母は少しずつ落ち着きを取り戻し、暴力的になる時間も減っていきました。

2017年、松島さんはご自身のコンサートに、母を初めて観客として招待しました。「会場でパニックを起こしかねない」と主治医は大反対でしたが、「母は終始にこやかに楽しんでいました。舞台は私が3歳のときから慣れ親しんだ私たち親子の職場。“母は絶対に大丈夫”と信じていました。19年のコンサートで、客席に下りた私が母にマイクを向けると、母はきれいな声で歌い、温かな拍手が起こりました。戦争の恐ろしい記憶も多い母の頭の中に、この光景が楽しい思い出として残ってくれたら、と心から願いました」。

晩年も訪問医療を受けながら在宅介護を続けます。胸騒ぎがしたその夜、母に添い寝をして抱きしめると、母も抱きついてきました。「ずっと起きていようと思ったのに、私は眠ってしまった。母の頰の冷たさで目が覚めて、あっ……と。呼びかけても返事はありませんでした。──もし母が95歳でしっかり者のまま亡くなっていたら、私は何の恩返しもできなかった。最期まで自宅で介護し、看取ったことで少しは親孝行ができたのかなと思っています」。

壮絶な介護の日々を赤裸々に綴った『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』。写真提供/松島トモ子さん

壮絶な介護の日々を赤裸々に綴った『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』。写真提供/松島トモ子さん


一方で、「在宅介護イコール美徳ではない」と松島さんは強調します。「家族関係や家庭の事情はそれぞれ。在宅介護にこだわって自分を追い詰めてはいけません。その大変さを身をもって経験した私だからこそ、声を大にしてお伝えしたいのです」。

介護を経て今、伝えたい3つのこと

1.在宅介護の要はケアマネージャー
在宅介護を続けるには、信頼できるケアマネージャーの存在が必要不可欠。もし不安を感じる場合は、紹介先の窓口に相談し、担当を替えてもらうことも可能です。

2.介護は百人百通り。在宅介護にこだわることはない
在宅介護は決して美徳ではなく、必ずしも最善の方法でもありません。介護は百人百通り。自宅でみなければ、と思い詰めないことが大事です。

3.ストレスは、ノートに書いて吐き出す
怒りや悪口など言葉でいえないことを書くと、私は少し気が楽になりました。自分なりのストレス発散方法を探してみてはいかがでしょう。

連載「私の介護体験」の記事一覧はこちら>>>

この記事の掲載号

『家庭画報』2026年04月号

家庭画報 2026年04月号

取材・文/浅原須美

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