つらくて不安なあなたに伝えたい「私の介護体験」第12回 長野智子さんが、92歳で亡くなった母を介護したのは、わずか1か月弱。しかしそれは、「母の望みをすべて叶えるために与えられた、かけがえのない濃密な時間だった」と振り返ります。介護を悔いなくやり遂げた背景には、父を亡くした子ども時代からの母への思いがありました。
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母が望んだことは、すべてやりきった 永遠の別れの前の“奇跡の一か月”
長野智子さん(キャスター・ジャーナリスト)

長野智子(ながの・ともこ)さん アメリカ・ニュージャージー州生まれ。上智大学卒業後、アナウンサーとしてフジテレビ入社。1995年秋、夫のアメリカ赴任に伴い渡米。2000年4月より『ザ・スクープ』(テレビ朝日系)のキャスターとなる。以降、『朝まで生テレビ!』『サンデーステーション』のキャスターなどを務め、現在は文化放送『長野智子アップデート』パーソナリティ、国連UNHCR協会理事として活動中。近著に『データが導く「失われた時代」からの脱出』(河出書房新社)がある。
「老衰。もって1か月」の診断。「私が介護します」と即答
「私には思い残すことは何もないの。倒れたらそのまま逝きたい。延命治療は絶対にしないで」。母から毎日のようにこう聞かされていた長野智子さんは、92歳の母がリビングで倒れているのを見つけたとき、“救急車を呼ばない”という決断に迷いは生じなかったといいます。
頼みのかかりつけ医に電話をすると「往診はできない」とまさかの返事。途方に暮れながらも、少し前に母の介護認定の件でお世話になった地域包括支援センターの人がとても親切な対応をしてくれたのを思い出し、相談すると往診専門ドクターを手配してくれました。
その日の夕方に訪れた医師は母をみて、「老衰ですね。もって1か月でしょう」。「急だと思いました。ほんの1~2週間前に一緒に外食を楽しんだくらい元気でしたから。でも意外に冷静だったのは、どこかで覚悟していたからだと思います、いつかこのときが来るだろう、ついに来たかと」。
医師に“入院しますか”と聞かれ、“いいえ、私が介護します”と即答。その日、11月3日に長野さんの在宅介護は始まりました。
乗馬が大好きだった母。長野さんが乗馬を始めると喜んで見に来た。母娘のつながりは密だった(2015年)。写真提供/長野智子さん
医師は「人間は枯れ枝のようになって亡くなっていくのが最も自然で苦痛もなく、遺体もきれいで、一番幸せなのです」といい、これから母に起こるであろう変化を説明してくれました。たまたま仕事もそれほど密ではない時期で、長野さんはほぼ毎日朝6時から夜10時まで母の側で、原稿を書くなどして静かなときを過ごしました。
食べること、歩くこと、話すこと。生きる営みを閉じていった母
「母は、最初の半月くらいは好物のすき焼きやうなぎを食べていたし、歩いてトイレにも行っていました。やがて食べることを拒絶し、口を濡らすのも嫌がり、歩こうとも話そうともしなくなりました。まるで生きるための営みを一つずつ閉じていくように死に向かっていきました」
11月24日夜、もう長くないと直感した長野さんは、母のベッドに腰かけて夫に電話をかけ、「今晩は泊まるね」と伝えました。すると意識のないはずの母が長野さんを蹴るように足でつついてきたのです。
「それは、実に母らしい“帰りなさい”の合図。昔から人の世話になることが大嫌いな人でしたから。“わかった、わかった”といって家に戻りました」。翌朝行くと、長野さんを待つかのように命は保たれていました。
そして午後1時過ぎ、苦しそうな下顎呼吸がしばらく続いた後、長野さんと夫が手を握る中で、吸った息が吐かれることは二度とありませんでした。
母を失っても生きていけるように父が与えてくれた時間だった
「悔いはない。母が望むことは全部やりきったから」と話す長野さん。入院させなかった、自宅で看取った、最期まで手を握っていた──。実はもう一つ、そう自信を持っていえる出来事があったのです。
48歳の若さで亡くなった長野さんの父はクリスチャン。洗礼を受けていない母は「死んでもパパと同じところに行けないのね」と気にしたまま倒れてしまいました。長野さんもクリスチャンではないのですが、父の教会で結婚式を挙げるなど家族ぐるみの深いおつきあいがあったからでしょうか、母は病床で洗礼を受けることができたのです。
「亡くなる1週間前でした。私が“よかったね”というと笑ったんです、母が。最後の微笑みでした。それから意識はほとんどなくなりましたから」。
心に残る言葉
大学生の頃、私が悪気なく「ママも再婚すればいいのに」というと、母はこう返し、私をひっぱたいた。
母「あなたは、私がどんなに パパを愛していたか わからないでしょ!」
―大学時代、すでにメディアの仕事を始めていた私はつきあいも広がり、しばしば帰宅が遅くなっていました。そんな私を過剰に心配する母が鬱陶しくて、「ママも自分の世界を持ったほうがいい」という意味で「再婚」という言葉を出したのです。母に叩かれたのはこれが最初で最後でした。母には父の美しい思い出だけが残っていたのかもしれません。「早くパパのところへ行きたい」と何度も繰り返していた晩年の母に、ぶれずにつながる言葉だと思うのです。 父が逝ったとき長野さんは7歳。以来抱き続けてきた母への思いは、特別なものでした。「母がいなくなったら私は生きていけない。“母が長生きしますように”と毎日祈り続けてきました。それだけに母と一緒の時間を過ごし、母と話し、母の望みを聞くことに前向きな人生だったと思います。あの一か月はそれをやり遂げるために与えられた時間だったのではないか。私はこのために生まれ、生きてきたのだとさえ思いました。それにしても、先にあるのは確実な死であり永遠の別れだったのに、あの平和な時間はいったい何だったのか……」。
長い沈黙のあと、長野さんは言葉を慎重に選びました。「私が、世界で一番失いたくない大切な存在を失っても、生きていけるように、父が与えてくれた、奇跡の一か月だったような気がします」。
亡くなる7か月前の4月、母92歳の誕生日をレストランで祝い、食事とワインを楽しんだ(2021年)。
今からやっておきたい3つのこと
1.親の話をできるだけたくさん聞いておく延命治療は? お葬式は? 誰に連絡する?など親の考えや希望を知っておくことは大事。いざというときに決断を迫られる自分ができるだけ迷わず、楽になるように
2.多少無理をしてでも親と会う時間を作っておく離れて暮らす親とは、疎遠になりがち。元気なうちに会っておけばよかったと後悔する前に、多少無理をしてでも会う時間を作る努力を
3.地域包括支援センターと、早めにつながっておく地域包括支援センターは介護者の味方。親に異変が生じたら早めに相談を。「つながっておいてよかった」と思うことがきっとあるはずです
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