母は私を大事に思っているらしい。少しずつ解けていったわだかまり
1週間に1回、名古屋のホスピスに通った3か月を、「人生で一番頑張ったとき」と青木さんは振り返ります。最初は間を持たせるために娘を同伴していましたが、途中でこれは自分の問題だと思い直し、一人で行くことを決心。それ以降、毎回自分に課題を与え、一つ一つ克服していきました。娘の答案用紙を見せる、足をマッサージする、仕事の話をするー。いつもへとへとになりながら“今日も頑張った、でも嫌いだ”の繰り返しだったといいます。
行くたびに看護師さんが、母が毎回カレンダーに丸をつけて面会に来る日を楽しみに待っていたことや、到着時間が遅れるといつも案じていたことを伝えてくれました。母は私を心配していたのか、母は私を大事に思っているらしい──そんな感覚が初めて体の中に入ってきたといいます。
「最期が近づいたある日、病室のベッドサイドのテーブルに置かれた新聞が、私に昔の記憶を呼び起こしました。小学校時代、家族みんなで新聞のテレビ欄の見たい番組に印をつけていたっけ──。あのときと同じ空気感がホスピスの部屋に満ち、好き嫌いなど意識せず親はただ親でしかなかった子どもの頃を思い出したんです。母が亡くなったとき、私は母を嫌いではなくなっていました。徐々に、自分のことが嫌いだ、自信がないというマイナス思考が減っていった気がします。誰かを嫌いじゃなくなると楽になる、と実感しました」。
病床の母もきっと、自分を見る娘の顔つきが穏やかに変わっていくのを感じたはずです。青木さんが自らの意志で行動した3か月。この間に母の心の重石、娘との確執という長年の重石が少しでも軽くなったのなら、たとえ日常的な世話はできなかったとしても、青木さんは母の心を介護したといえるのではないでしょうか。
「本を書くと自分のことが整理できる。書き終わったら私はもうそこにはいない。次のステージに進んでいる」という青木さん。半生と母との確執を書いた『母』(右)と、その後の日々を綴ったエッセイ『50歳。はじまりの音しか聞こえない 青木さやかの「反省道」』。
私が守った3つの心がけ
1 実際に介護している人への感謝を忘れない私は東京で離れて暮らしていました。母との確執もあったので介護らしい介護はほとんどしていません。実際に介護をしてくれていた祖母、叔母、弟にはいつも感謝していました
2 口は出さない。出すならときどきのお金近くにいて日々の世話をする人がいちばん大変なことは間違いありません。全面的に任せて、口出しは一切しませんでした
3 容体の変化に 一喜一憂しない父の晩年は容体が急変しては持ち直すことがたびたび繰り返され、その度に私は一喜一憂してひどく疲れました。母の場合も同様でしたが、気持ちを一定に保つよう心がけました
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