〔特集〕開創700年 孤高の禅刹 大徳寺──非公開の至宝を訪ねて 1326年、京都・紫野の地に大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)によって開創された大徳寺は、峻烈な禅風を今に伝え、「孤高の禅刹」と呼ばれています。開創700年を機に催される展覧会にちなみ、通常は完全非公開の「金毛閣」や至宝の数々を誌面にて特別公開。禅と美の真髄へご案内します。
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茶禅一味の名刹に千利休の小宇宙
利休切腹の原因になったとも伝わる三門楼上「金毛閣」
大徳寺の象徴、朱塗りの三門。楼上に、雪駄を履いた等身大の利休像が設置されていたことで豊臣秀吉から不敬罪に問われ、切腹に至ったとされる。金毛閣を破壊すべくやってきた秀吉の使者に大徳寺第117 世住持・古渓宗陳が一歩も引かずに、一喝して今に残る。下層は1529(享禄2)年連歌師宗長の助力により落成。上層を1589(天正17)年、千利休が寄進。
大徳寺に禅の至宝が多々現存しているのはなぜか。それには作家の司馬遼太郎さんをして、「大徳寺の特徴は大燈国師(宗峰妙超)以来の厳しい禅風をまもるべく、できるだけ世塵から超越しているところにある」といわしめた峻烈な禅風、そして茶の湯とのかかわりが大きく関係すると考えられています。
小さな庵を構え修行に勤しみ、次第に名声が高まっていった宗峰妙超に、花園上皇(北朝)と南朝の後醍醐天皇が帰依。南北両朝の勅願所となり、1326(嘉暦元)年、大徳寺が開創されました。室町時代、応仁の乱で壊滅的に荒廃した大徳寺を再興したのが、一休さんの呼び名で親しまれる第47世住持の一休宗純。一休禅師を慕った堺商人たちの帰依と寄付が再興に繫がり、焼失した三門の単層部分が再建されました。大徳寺の福代洋道宗務総長曰く「三門とは悟りの境地に達するために必要な空門、無相門、無作門のこと。そのすべてを会得する覚悟を持ってこの正門をくぐり、修行に臨まなければなりません。そのため山門ではなく、三門と呼ぶのです」。大徳寺の再興において、三門がいかに重要であったかがわかります。
大徳寺の禅風は、堺の豪商たちを介して日本文化に多大な影響を与えていきましたが、その最たるものが茶の湯でした。一休禅師とわび茶の祖・珠光(じゅこう)の出会いをスタートに、武野紹鷗(じょうおう)、千利休へと引き継がれていきます。
千利休立像──三門楼上
利休像は1887年に岡山藩家老だった伊木家から寄進されたもの。
大徳寺で禅僧同様の精神修行を積んだ茶人により完成された茶の湯の文化は「茶禅一味」と称され、禅の心を持つ茶道として建築、庭園、美術工芸の生活文化全般に浸透。桃山文化として花開きました。豊臣秀吉が主君・織田信長の葬儀を営んだのもここ大徳寺です。そして、千利休が寄進、増築したのが三門の上層。
千利休によって寄進された三門「金毛閣」の上層内部
利休自らディレクションした三門(金毛閣)の上層内部は、細部にまで美意識が冴えわたる。梁には「利休老居士修造」の文字が見える。非公開ゆえ保存状態はかなり良好。利休は天井画や柱絵の堂内装飾に長谷川等伯を抜擢した。
「金毛閣」と称した楼上に千利休木像を設置したことで秀吉の不興を買い、切腹を命じられたとも伝えられます。
利休忌に行われた三千家家元による献茶式
2026年2月28日、三千家による合同献茶式が36年ぶりに開かれた。前回、利休400 年遠忌(1990年)の合同献茶式は法堂(はっとう)での儀式だったため、金毛閣では初。

開創700年記念 特別展
『大徳寺 本朝無双之禅苑』
~東京国立博物館 平成館~
孤高の禅刹、大徳寺の寺宝がまとまって公開されるのは実に41年ぶりのこと。東京では初となるまたとない機会。誌面でご紹介した非公開「金毛閣」内部が再現展示され、「千利休立像」、ご本尊「釈迦如来坐像」、両脇侍「阿難像」「迦葉像」が初公開。仏殿の狩野松栄の圧巻の大作「仏涅槃図」も展示。一期一会の機会をぜひお見逃しなく。
会場:東京国立博物館「平成館」
会期:2026年10月14日~12月6日
休館日:月曜(ただし11月2日、23日、30日は開館)、11月24日
開館時間:9時30分~17時(毎週金曜・土曜及び11月1日、2日、22日は20時まで開館。入館は閉館の30分前まで)
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
詳細は展覧会公式サイトをご確認ください
URL:
https://daitokuji2026.exhn.jp/(次回へ続く。
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