〔特集〕次世代に伝え継ぎたい 桜絶景を求めて 日本が世界に誇るべき「美しい桜の風景」は、そのどれもがそれを守ろうとする人々の確かな意志によって支えられています。将来の日本人の美意識のために次世代に伝え継ぎたい桜絶景はどこか。長年、桜名所や桜を守る人々を取材してきた家庭画報本誌が、現在の手入れ・管理状況なども踏まえつつ、改めて桜の専門家とともに「新・桜100景」として厳選し紹介します。
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[特別寄稿]桜と日本人の心
桜と虫と
── 養老孟司(医師・解剖学者)
昨令和7年10月、三重県久居の友人宅を訪問する機会があった。その時に以前私が本居宣長の鈴屋(すずのや)を見たいと言っていたのを記憶していてくれて、同行した友人たちと宣長の旧宅を訪れることができた。幸い天候にも恵まれ、長らく想っていた場所に行けたのは、長生きをした幸運であろうか。
私の年代で、桜と言えば本居宣長、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」だと思う。ただこの歌は軍国日本と結びつきすぎたので、戦後生まれの人たちにはあまり受けないかもしれない。じつは私も山桜は大好きで、大学生のころ、生まれ育った鎌倉市の山中で、連休ごろに遅く咲いた山桜を数本見て、感動した覚えがある。その分、ソメイヨシノが嫌いで、スギやヒノキの造林を徹底して、その道端にソメイヨシノが植えてあるのを見ると、腹が立つ。スギとヒノキとソメイヨシノの三種がよかれあしかれ日本を代表する樹種であろう。
自然林が私は好きなので、とくに西日本の連休ごろの自然林の美しさには心を打たれる。若葉の色彩が多様で、その中に山桜の淡いピンクが混ざる。天気の良い日だと、光の具合が微妙に移り変わって、いつまで見ていても飽きない。この国に生まれた幸せを思う。
桜は宣長でなければ、西行である。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」。西行が桜を詠んだ歌はたくさんあるから、気に入ったものを列挙すれば際限がなくなる。
若いころには、私は桜に関心があまりなかった。大きな理由は虫が来ないからである。桜に蝶などという画材はない。そもそも桜の花には虫があまり来ないのである。春早く虫が集まる花はじつはカエデである。カエデの花を知る人は少ないのではなかろうか。メイプル・シロップが採れるのでおわかりのように、カエデは豊かに糖分を含む。だからカエデの花には虫が集まる。しかし見た目は花として特に美しくはない。赤褐色の地味な色をしていて、葉の陰に隠れている。
私が大学生のころには伊豆の天城山など、関東の低山帯で、カエデの花でカミキリムシを採るのが流行していて、気に入った木を見つけると、弁当持ちで木に登り、虫が飛んでくるのを待つ虫好きがいた。ラオスやヴェトナムなどの東南アジアになると、これがシイ・カシ類の花になる。3月ごろにおびただしい数の虫が集まっている。栗の花もカシの仲間だが、日本では季節が遅れて、6月末になる。ただし虫が集まることに変わりはない。
花が咲くのは、顕花植物の特徴で、じつは顕花植物の進化と虫の進化は結びついている。虫が花粉を運んで、植物の繁殖を助ける。虫媒花といわれる。ヤシのように、離れた孤島にある樹木は、風媒花と思われやすいが、ヤシの花には多数の虫が集まっていることもよくある。桜と虫の関係を私はよく知らない。無関係のはずはないのだが。
桜川の桜( 茨城県・桜川市)
雨巻山(あままきやま)を彩る山桜の饗宴。里を背景に、日を浴びた新緑と桜が春爛漫の風景を生む。「謡曲『桜川』は桜の名勝地として名高い磯部一帯が舞台。桜川は古くから知られる桜の名所で西の吉野、東の桜川と称された。先人も愛した桜を愛でるのも一興」(樹木医 藤原隆之)。
●茨城県桜川市市門毛 TEL:0296(55)1111(桜川市役所) 例年の見頃/4月中旬
写真/本誌・佐藤竜一郎
養老孟司(ようろう・たけし)神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒業。『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。『バカの壁』は450万部を超えるベストセラーを記録。『壁』シリーズ最新作は、『人生の壁』(新潮新書)。
(次回に続く。
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