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川上弘美さんが紡ぎ出す“平安時代の恋”。時空を超えた最新作『三度目の恋』

小説を書くということ~作家が語る、書くこと、読むこと 小説が読まれない、小説が売れない。そんな話を耳にする昨今。けれど、よい小説には日常とは別の時空を立ち上げ、それを読む人の心をとらえる“何か”があることは、いつの時代も変わらない事実。SNSやブログを通じて、誰もが書くことができるこの時代、小説を書くとはどういうことなのか。小説家はどんなことを考えながら、小説を書き、読んでいるのか。作家の方々に、それぞれの小説作法を尋ねます。連載一覧はこちら>>

第8回 川上弘美さん
〔前編〕


かわかみひろみ●1958年東京生まれ。94年、『神様』でパスカル短篇文学新人賞を受賞。96年『蛇を踏む』で芥川賞、2001年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、15年『水声』で読売文学賞、16年『大きな鳥にさらわれないよう』で泉鏡花文学賞を受賞。句集に『機嫌のいい犬』、近著に『このあたりの人たち』『某』など著書多数。


駅前の飲み屋で高校時代のセンセイと再会したツキコさん。ふたりの恋心が深まってゆくさまが、微笑ましくも、どこか切ない『センセイの鞄』。失踪した夫を思いつつ、新しい恋人との逢瀬を重ねる主人公の、見えない何かとのやりとりが生々しく迫る『真鶴』。性と生への欲望を露わに描いた短編集『なめらかで熱くて甘苦しくて』……。

これまでも、さまざまな恋愛小説を描いてきた川上弘美さん。最新作『三度目の恋』は、池澤夏樹さん個人編集の『日本文学全集03』で、平安時代の歌物語『伊勢物語』の現代語訳を手がけた川上さんが、その『伊勢物語』をモチーフにした長編小説だ。

夢を介して現代、江戸、平安を行き来する

主人公の梨子が、夢を介して現代、江戸、平安という3つの時空を往来する本作は、明治以前につくられた膨大な古典籍(書物)を所蔵する国文学研究資料館(以下、国文研)が進める創作プロジェクト「ないじぇる芸術共創ラボ」の企画として始まったそうで、「『伊勢物語』の現代語訳を終えたとき、業平の魅力はわかったけれど、なぜ女たちがあれほど業平を求めるのかがよくわからなかったんです。それを知るために、当時の社会のこと、生活のことを理解できればと思い、平安時代に暮らしてみるつもりで、研究者の方々にいろいろ教えていただきました」と川上さんは言う。

実は、古典は苦手だったという川上さんにとっての『伊勢物語』の魅力、長年、つくり続けてきた俳句の小説への影響、そして自我の問題へと、話は連なっていった。


川上弘美『三度目の恋』(中央公論新社刊)

 あのひとは、わたしにとっては、おにいさん、でした。初めて会ってから、恋が始まるまでは。最初のころは何回か、おじさん、と呼んだこともあったとか。わたしが二歳になる前だったと聞きます。

「おじさんは、やめて」

 あのひとは、わたしを抱き上げながら頼んだそうです。自分で自分のよだれをふく智恵もなかったわたしは、盛大にあのひとの胸元によだれをたらしつつ機嫌よくあのひとの頼みを無視し、おじたん、おじたん、と繰り返したのでした。

 まだ中学生なのに、おじさんなのか、ぼくは。あのひとは笑い、わたしをぎゅっとあのひとの胸に抱き寄せたそうです。母も笑いながら、おじたんじゃなくて、おにいたん。ナーちゃん、でもいいかもしれないわね。そう言いました。ナーちゃん。原田生矢(なるや)。それが、あのひとの名前なのでした。

川上弘美『三度目の恋』より

『伊勢物語』から生まれ出た最新作

――『伊勢物語』に材を取った『三度目の恋』は、古典の心得がない者にも、平安時代や江戸時代を想像できる作品でした。現代語訳に始まり、『伊勢物語』とはだいぶ長い付き合いになりますね。

学生時代、古典は大の苦手でした。同じ日本人なのに、違う言葉をしゃべっているとしか思えなくて。小説家になってからも、古典に親しむことはなかったのですが、池澤夏樹さん個人編集の『日本文学全集』で“『伊勢物語』の現代語訳をやりませんか”と声をかけていただいたんです。

それはちょっと無理だろうと、最初は思いましたが、学者の方々のお仕事のような正確さを求められているのではないということで、じゃあチャレンジしてみようか、と。まずは編集の方に、高校生向けのいちばんいい参考書を教えていただいて、それを読むところから始めました。

自分がすべてを理解できたとは思えませんが、古典に対するハードルが少しだけ低くなった今は、『伊勢物語』には、現代の私たちに通じることが多いと感じています。だからこそ、今も読まれているわけで、まったくわからないものだったら残っていなかったでしょうし。

――『日本文学全集03』の刊行記念の講演でも、古典は苦手だったとおっしゃっていましたが、謙遜だと思っていました。

先輩に“どうしたら古典を読めるようになりますか”と聞いたら、“ひらがなで書かれたものよりも、漢字が多いものがいいから『雨月物語』から入りなさい”と言われて読んでみましたけど。今でも注釈付きじゃないと読めないですね。

――この作品は、国文研による古典籍を生かす事業「ないじぇる芸術共創ラボ」のワークショップから生まれたそうですね。

この仕事で何をするか、自分のなかでは最初から決まっていました。現代語訳を終えたとき、業平の魅力はわかったけれど、なぜ女たちはあれほど業平を求めたのか、彼がどう応えていたかがよくわからなかったんです。それを知るためには、現代の自分の感覚とは別に、昔の社会のこと、生活を理解する必要があるだろう、と。

ある国の歴史や文化を知らずにただ見物していても、その場所のことはわかりません。自分がそこで暮らすつもりで古典の世界に入ってゆけば、業平と女たちの関係も、今よりはわかるのではないかと思い、まずはそれを教えていただこうと、国文研に通いました。

“業平ってどうしてあんなにモテたんですか?”

――今回の小説は、夢のなかで江戸の吉原や平安貴族の世界を生きる梨子から、いろいろ聞かせてもらっている感じで、当時の様子が想像しやすかったです。

それはたぶん、私自身が当時のことを知らなかったからかもしれません。古典の苦手な私が、わからないなりに資料を読み、先生方に質問して、苦労しながら平安時代や江戸時代のことを学んでいたので、古典を知らない人が気になること、どこで引っかかるかがわかるというか。私が江戸や平安の世界の入り口で気づいたこと、驚いたことが、小説に反映されていたのではないかと思います。

――いろいろ取材も多かったのでしょうか。

今回は平安時代まで行ったわけで(笑)、場所だけでなく時間の移動もあったので、国文研の先生方にはほんとうにいろいろなことを教えていただきました。みなさん、膨大な知識をお持ちですが、私は何を教えてくださいと聞けばよいかもわからない。それで“平安時代のひとたちは何を食べていたんですか”と尋ねると、同時代の物語に出てきた食べ物の一覧を、さっと出してくださったり。でも、“業平ってどうしてあんなにモテたんですか”と聞くと、先生方は目を白黒させて、“それ、考えたことなかったですわ”って笑っていました。

川上弘美

――根源的な質問ですね。

たぶん私の質問は、学者の方々の研究とは違う方向のことなんです。でも、知りたいことを尋ねると、それならどこに行けばよいか教えてくださって。京都の風俗博物館とか、おもしろい取材をたくさんさせてもらいました。

あと、国文研には関西出身の先生が多くて、関西では山の端から月が出ることを実感できるけど、関東ではそれがない、(ここに来て)関東でつくられた和歌の景色がわかったとか。たぶん、みなさんにとっては些末なことなのでしょうけれど、それを聞いた私はハッとさせられて……。一つひとつ、そういう小さな積み重ねが取材になっていました。

気を取られるのは“些末なこと”

――読む側としても、川上さんがおっしゃる些末なことの積み重ね、そこに反応していました。

歴史や思想といった大きな話もおもしろいことですけど、私自身は些末なことしかわからないし、実際、自分では、朝起きてから夜寝るまで、何をしていたかを書きたいし、読みたいと思うほうなので、そういっていただけると嬉しいです。

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