アート・カルチャー・ホビー

“普通”に縛られた社会のなかで軽やかに書き続けて。温 又柔さんが信じることばの力

小説を書くということ~作家が語る、書くこと、読むこと SNSやブログを通じて、誰もが書くことができるこの時代、小説を書くとはどういうことなのか。小説家はどんなことを考えながら、小説を書き、読んでいるのか。作家の方々に、それぞれの小説作法を尋ねます。連載一覧はこちら>>

第7回 温 又柔さん
〔後編〕

〔前編〕台湾語、日本語、中国語のはざまで。温 又柔さんが考える“ことばとともに生きること”

書き始めたときから一貫して明確なテーマを持つ、というよりも持たざるを得なかった温 又柔(おん・ゆうじゅう)さん。均一性をよしとし、今も同調圧力の強さがさまざまなかたちで表面化している日本で、幼い頃の温さんは、自身と周囲との違いをどのように受け止めていたのか。作品を読んでいると、そんなことを考えさせられる。

“私には妹がいるのですが、姉である私ほど神経質ではありません。もっとずっとおおらか。妹はとても大切な存在です。小さい頃は日本人ではないせいで妹がいやな思いをしないように私が守ってあげなければ、なんて思っていました。でも、私たちを守っていたのはやっぱり母だと思います。母が、いつもあかるくおおらかなので、我が家には楽天的な空気がいつも漂っていました”と、温さんはいう。

向き合っていると、こちらの気持ちまで晴れ晴れとさせてくれるその笑顔は、“笑う角には福来る”のことわざどおり、温さんに福をもたらしているのだろう。


幼少から身近にあった中国語。
外国語として向き合うことで見えてきたもの

――大学入学後、中国語を習い、留学した体験をベースに書かれたのが、『真ん中の子どもたち』でした。

私にとって中国語は子どもの頃からずっと身近にあったことばで、自分がその気にさえなればいつでも取り戻せるものなのだと思っていたんです。ところが、いざ、外国語として中国語と向き合うと、そんな簡単な話ではなくて。小説を書き始めた頃の私にとって、日本で育った台湾人なのに中国語ができないという劣等感と、それをどんなふうに乗り越えてゆくか、というのは最も重要なモチーフでした。

『真ん中の子どもたち』やデビュー作である「好去好来歌」の主人公たちは、台湾人なら中国語はできてあたりまえ、という周囲のプレッシャーに耐えきれず、中国語と向き合うのがいやになってしまう。つまり、中国語を学ぶのが辛いせいで、自分のなかにある台湾というルーツが重荷になる、という書き方をしたのですが、これはほとんど著者の私自身の経験をなぞっています。

でも、『魯肉飯(ロバプン)のさえずり』では、結婚生活に苛まれるようになった桃嘉が、台湾の伯母たちに励まされ、台湾っていいなと思うところから、中国語を学んでみよう、という流れにしました。通い始めた中国語教室の先生や仲間たちも、台湾ルーツの桃嘉に肯定的な態度を示します。桃嘉には、著者である私とは別の、もっと幸福な、台湾や中国語との出合い方をさせたかったんです。

――ママ、うちの外では日本語だけを話して。お願いだからそうして……

ほとんど怒鳴りつけるように言ったこともあった。母が口元をおさえて、はいはい、桃ちゃんは日本人だもんね、などと言うからなおさら癪(しゃく)に障るのだ。

(なんでママはふつうのママじゃないの?)

けれども、母はいつも一生懸命だった、と桃嘉は思う。

――ママ、がんばるね。だから桃ちゃん、何も心配しないで。安心して花嫁さんしてね。

日本人にはあたりまえのことでも、母にとってはいつもそうだったわけではない。母がふつうのお母さんとちがうのなら、母よりもこの国のことをよく知っている自分が母を支えなくてはならないと思っていた。

――桃ちゃんはとてもいい子。ママ、しあわせ。

けれども支えられていたのは、いつだって自分のほうだった。

温 又柔『魯肉飯のさえずり』より

ルーツの国のことばを学ぶこともまた、“正しい”訳ではない

――主人公の中国語との出合い方が、今までとはちがうのですね。

台湾にルーツを持ちながら日本で育った作家として、自分と似た境遇のひとたちに“あなたも自分のルーツがある国のことばを学ぶべきですよ”というメッセージを与えたいとは思わない。むしろ、そうすることだけが自分のルーツを大切にする方法なのだとはいいたくないんです。

私はどちらかといえば、ほかにもルーツがあるのに日本語しかできなくても、それがあなた自身のあるがままの姿なら、そのまま堂々と生きてればいいよ、と伝えたいと思ってます。

この小説も、台湾というルーツへの回帰が素晴らしいと讃えたかったのではなくて、スタンダードを押しつける聖司に対して、桃嘉が自分の心の声を取り戻すのに、台湾という源が背中を押してくれた、という書き方をしたかったんです。

――どちらが正しい/正しくないという話になると、結局、自分が苦しくなるし、行き詰まりがちです。

そのとおりです。一方で、そうであるからこそ、「正しさ」とは相対的なものだ、といい切ってしまうのにも慎重でいなければ、とも思っているんです。こちらもあちらも正しい、では、こちらもあちらも正しくない、とそんなに変わらない。私はできれば、複数の正しさの間にあるアイデンティティーの在りようを追求したいと思っています。

まるで子守唄のように。
ことばの音が持つ優しさに包まれる

――話は飛びますが、温さんは朗読もよく行っていますよね。複数の言語の特性が生かされた朗読は、聞いていて楽しかったです。

とてもうれしいです。自作を、声を出して読むのが私は好きなんです。つい忘れてしまうけれど、ことばはそもそも音から始まるものです。朗読していると、ことばの音楽性というか、ことばが文字として紙の上に定着する以前の原始的な状態を思い出せるので、それが私自身、すごく楽しいんですよね。

だからパフォーマンスというよりは、赤ん坊や幼児が声を発するのがうれしくてたまらないときの姿を晒してるみたいなものなのですが(笑)。それを聞いてくださっている方が、文字で書かれた私のテキストの台湾語や中国語の部分ってこんな音なのか!と面白がってくれるのもうれしいことです。

小説でも、もっと音として生きている感覚を表現したいんです。国語的ではない日本語を話す親をやっかいだと思っていた子どもの頃も、祖母の家に台湾の親戚が集まって、みんなで一緒に遊んだ後、ウトウト昼寝をしている横で、大人たちが話す台湾語が聞こえてくるのはたまらなく心地よいことでした。私にとって、それは子守唄のように、忘れられないものです。そういうことば、自分にとって優しい、言語化できない時間を文字にしたとき、国語的な法を超えた感覚は、今も楽しんでいます。

――在留外国人が増えているなか、温さんのような取り組みは、これからちがう言語でもなされていくのではないでしょうか。

この小説を書きながら、雪穂のような母親をもっと自然に受け入れられる社会になればいいと思っていました。ママはずっと私の恥部だったと、桃嘉はそう思わされていたけれど、今後、移民の子たちが増えていくなかで、誰もそんなふうに思わずにすむように、これから徐々に社会を変えていかないと。

おとなになってからのことですが、日本語のとってもじょうずな外国出身の友だちのおうちに遊びに行ったら、彼女が自分の息子さんに母語で話しかけるのを耳にして。私には一言もわからない未知のことばであたりまえのようにやりとりする彼女と息子さんの会話が羨ましくなったことがありました。昔は自分もあんなに母を煙たがっていたのに(笑)。

――隣の芝生は青く見えるのですね。

友人の子どもが、親が母語で話すのを嫌がっていたりすると、過去の自分を見ている気になるし、“みんな、あなたを羨ましいと思っているんだよ”と、そこはあえて強調していいます(笑)。

――ところで温さんは作品の冒頭に、よく他の作家の文章を引用されますよね。

はい。たとえば、ノーマ・フィールド、トリン・T・ミンハ、管 啓次郎……。こうした人たちのことばは、私が知らずしらずのうちに貶めてきたものこそ、実はすごく美しいのだと教えてくれました。自分の思考を言語化する上で道を照らしてくれたことばたちへの敬意を込めて、冒頭に引用することが多いですね。

ものを考えるとき、いつも、自分の内側から出てくることばだけではとても間に合わないというか、限界を感じるんです。そういうときは、自分がうまく言語化できずにいることがどこかに書いてあったらいいのに、と願いながら本をめくります。本を読んでいて、ほかの誰かが私がうまくことばにできずにいたことを見事にいい当ててくれたら安堵するし、逆に、こちらがまったく思い付きもしなかったものの見方や世界の捉え方が提示されていると興奮します。

ことばには限界がある。だからこそおもしろい

――何かをひっくり返されることも、読書のおもしろさです。

こんなものだろうと思っていたことほど、ひっくり返されたとき、自分が世界によりフィットできるし、そういう瞬間を望んでいます。たった一行、いや、ほんの一文でも、自分がここにいることの意味を深く感じ取れる強度のあることばと出合えると、おおげさではなく、生きててよかったな、と。こんな読み方ばかりしているので、本が好きというわりには私の読書量はとても少ないのです(笑)。

――大学のゼミの先生は、リービ英雄さんでしたね。

はい。リービさんのところで読んだ本はことごとく、私の命綱になりました。安部公房、李良枝(イ ヤンジ)、多和田葉子……。リービさん自身、国語的な日本語に懐疑心を持つ書き手ですし。そういう作家たちが表現する世界が、私の道標です。

――再読する本はありますか。

落ち込むと、トリン・T・ミンハを読みたくなります。ミンハも自身のテクストのなかにおびただしい引用をしますよね。あとはジュンパ・ラヒリが大好きです。『魯肉飯のさえずり』を書いているあいだ、ずっとラヒリの『その名にちなんで』を読んでいました。

――日本語が上手ですねと、これまで何百万回といわれてきたと思うのですが、どのように受け止めていたのでしょうか。

最初こそ、生真面目にその理由を相手に説明したり、またか、いやんなっちゃうな、と鬱陶しく思いながら適当にはぐらかしたり。近頃では、“ええ、あなたよりは”と返して反応を試したり(笑)。そうすると相手も、えっ、となって、そうか日本語って日本人だけのものじゃないのか、みたいに考えはじめてくれる。そんなふうに、日本語って実はもっと開かれていて、日本人にとってももっと柔軟なものかもしれない、みたいなことを考えてもらうきっかけやヒントに自分の存在がなっていることを、今は幸運に思っています。

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