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「苦しい時だからこそ思いやりと慈しみの心を」川野泰周さん(林香寺住職・精神科医)

不安な時代を乗り切るメッセージ「心をつなぐ言葉」 第4回(全7回) 当たり前だと思っていた日常や、世界の情勢はどうなっていくのか―。家庭画報ではそんな時代を生き抜くため、“心をつなぐ”をテーマに、そのヒントを探しました。見えてきた一つのキーワード、それは「思いやり」です。識者のかた、それぞれが考える、私たち一人一人に求められる「思いやり」を紐解いていきます。前回の記事はこちら>>

「人々を救済する菩薩さまは、
まさに人の心の中にいるのです」
──林香寺住職・精神科医 川野泰周さん

川野泰周さん

臨済宗建長寺派林香寺住職
精神科・心療内科医
RESM新横浜 睡眠・呼吸 メディカルケアクリニック副院長
川野泰周(かわの・たいしゅう)さん

1980年生まれ。慶應義塾大学医学部医学科卒業。精神科診療に従事した後、3年半の禅修行を経て2014年末より住職となる。現在は寺務の傍ら、精神科診療や講演活動を通してマインドフルネスの普及と発展に力を注ぐ。

他人を省みなかった僧を病から救ったお釈迦さま

遠い昔、お釈迦さまが生きておられた頃の話です。

修行僧の1人が病気にかかり、苦しみながら臥せっていました。何日も食べることができず、散らかった部屋の中、糞尿にまみれて動けなくなっている彼に、誰も近づこうとしません。ある日その姿を目にしたお釈迦さまは、こう尋ねました。

「あなたはどうして1人きりで苦しんでいるのですか。誰も世話をしてくれないのですか」

すると病気の僧は答えました。

「私は怠け者で、自分のことしか考えずに生きてきました。他の人のことはどうでもいいと思って、病気の仲間がいても看病しませんでした。だからこうして病気にかかっても、誰も看病してくれる人がいません」

お釈迦さまはこれを聞いてことさらに咎めることもせず、「では私が看病しましょう」と、この僧の衣をていねいに洗い、汚れた体を手で拭きました。散らかった部屋をきれいに掃除して、体が痛くならぬよう、ふかふかの敷布団に替えてあげました。そして、痛みにもがき苦しむ僧をさすってやりました。

その甲斐あって、彼の病気は癒やされ、日に日に回復してゆきました。お釈迦さまの慈悲に心から感謝したこの僧は、身も心も喜びに満たされ、思いやりある立派な修行僧になったそうです。

いま私たち現代人は、未知の病原体に平和な暮らしをおびやかされ、一寸先の将来も分からぬ心の闇と対峙しています。人間の心理には「防衛」という精緻なシステムが備わっていて、あまりにも大きな不安に心が耐えられそうもない時、その不安を別の感情にすり替え、無意識に外の世界に向けようとする反応が起こります。

昨今、ドラッグストアの店員さんや役場の職員さんに怒りや不満をぶつけたり、ネット上で激しい批判や中傷を書き込んだりと、人の心に潜む「他罰性」が発露される光景が、街中にあふれています。自らもリスクにさらされながら頑張って働く人たちに、やさしさをもって接することができません。まるでこのウイルスが、私たちの心をもむしばんでいるかのようです。

苦しい時だからこそ思いやりと慈しみの心を

私は寺院の勤めのかたわら、都内の心療内科でいまも診療を続けています。「コロナ鬱(うつ)」という言葉まで登場するほど、多くの人たちが先の見えない不安と恐怖を心に抱え、来院されます。

感染防止のためにできるかぎりの対策をとっていますが、それでも主治医である私自身が感染するリスクも、また私が患者さんに感染させてしまうリスクも、ゼロにはなりません。一体この病原体は、私たちに何をもたらすために現れたのか。どこにもぶつけようのない憤りを覚えることもあります。

そんな私の心を救ってくれたのは、他でもない、患者さんたちでした。いつもは「お大事にどうぞ」という私の言葉で終わる診察に、思いもかけぬ「もう一声」が。

「先生も、お体お気をつけくださいね。あまり無理をされませんように」

そんな言葉を多くの患者さんがかけてくださるのです。診察室のドアが閉まろうとするその時、今日一番の笑顔で患者さんがくださる一言に、私はどれほど勇気づけられたでしょうか。

ご自身が不安や困難の中にいてもなお、目の前の人にやさしさを向けることができる。これこそが、「菩薩の心」です。人々を救済する菩薩さまは、お寺の本堂や美術館の展示室ではなく、まさに人の心の中にいらっしゃるのです。

この世で最も恐ろしいものは、人間の恨み、憎しみの心です。そしてそれを温かく包んで浄化することができるのは、思いやりと慈しみです。誰の心にも生まれながらに備わっている、人をいたわり、助けたいと思う気持ちです。

こんなにも苦しい時だからこそ、全ての人の幸せと、世界の平和のために。

「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、その心やさしさとともにあらんことを」

撮影/鍋島徳恭

『家庭画報』2020年7月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。

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