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江戸の日本は世界的な園芸大国! 独自に発展した「菖蒲(しょうぶ)」の歴史を紐解く

世界に誇るニッポンの花遺産 受け継がれる名花「花菖蒲」を巡る 第2回(全5回) 初夏から梅雨にかけて季節を彩る花菖蒲は、江戸時代後期に飛躍的に発展した日本古来の伝統園芸植物。生涯をかけて品種改良を行い、優れた品種を多数生み出した「菖翁」と呼ばれる一人の旗本の存在と、花菖蒲の群生を見せるという堀切発祥の江戸の新名所「花菖蒲園」の誕生が、その歴史を大きく変えたのです。ここでは、江戸から受け継がれる名花を今も大切に育てる3つの花菖蒲園を紹介するとともに、花菖蒲にまつわる歴史や文化を掘り下げました。前回の記事はこちら>>
※以下の記事は、『家庭画報』2020年5月号取材当時の情報です。開苑状況等は変更となっている場合もありますので、最新情報は公式ホームページ等でお確かめください。

菖翁花

一代で花菖蒲を世界に誇る園芸種に高めた、菖翁こと松平定朝が作出した「菖翁花」の中でも、随一の名花といわれる「宇宙」。菖翁自身も「遂に奇品出るにいたれり」と著書中で絶賛している。写真は札幌市の八紘学園 北海道農業専門学校 花菖蒲園で撮影されたもの。

江戸の旗本が遺した美の結晶が今もなお
「菖翁花」の名前を引き継ぐ奇跡の花

幕末に来日した多くの外国人が驚いたように、江戸時代の日本は世界に冠たる園芸大国でした。武士は武道や茶道と並ぶ精神修養や嗜(たしな)みとして園芸を学び、植物を愛好する一方、庶民も路地裏で園芸を楽しみ、花の名所に出かけました。

牡丹、菊、朝顔など、さまざまな古典園芸植物が生まれますが、中国原産の植物が多い中、日本の山野に自生するノハナショウブから改良され、独自に発展したのが花菖蒲です。

といっても、江戸前期の花菖蒲はまだ原種の面影を残した単純な形で、せいぜい数十種類でした。しかし、後期に登場した一人の旗本が生涯をかけて品種改良を繰り返すことで、200種以上の花を生み出したといわれ、花菖蒲を飛躍的に発展させました。松平定信の遠縁にあたり、晩年、自ら「菖翁」と号した松平左金吾定朝(さだとも)です。

1773年、江戸に生まれた定朝は父譲りの花好きが高じ、現在の港区元麻布の中国大使館辺りにあった広大な屋敷において、84歳で亡くなるまでの六十余年にわたり、花菖蒲の改良に取り組みました。

退職前の十数年間は京都に赴任し、京都町奉行などを務めますが、なんと江戸から花菖蒲の株を携えて行って官舎の庭でも栽培を続け、再び江戸に持ち帰ったそうです。車も電車もビニールポットもない時代に一体どうやって運んだのかと、その情熱には恐れ入ります。

隠居後はますます研究に励み、名花「宇宙」に代表される、珍花奇花を作出。当人は苦労してつくり出した花が庶民に広く売買されることを好まず、晩年まで門外には出しませんでしたが、屋敷内の花の見事さが次第に世間に知れ渡り、開花期には見物客が門前市を成して、苗を欲しがる人や栽培法を聞く人も大勢押しかけたようです。

一方、菖翁は肥後藩主細川斉護(なりもり)から花菖蒲を譲ってほしいと打診され、初めはすげなく断ったものの、あきらめきれない斉護が江戸勤番となった藩士の一人を弟子入りさせたため、その熱意に動かされたのか、最後は秘蔵の花の苗を分け与えました。これがのちに肥後における改良によって独自の発達を遂げ、室内観賞向きに鉢植え栽培される肥後系の花菖蒲のルーツです。

花菖培養録

『花菖培養録』嘉永6年版(1853年)の写本。栽培法だけでなく、品種改良の経緯や花菖蒲に対する独自の美学などが綴られ、自身が作出した名花21品種の図譜も掲載。写真は右が「獅子奮迅」(現存せず)と「霓裳羽衣(げいしょううい)」、左が「宇宙」。

さらに、菖翁は晩年、花菖蒲の栽培法を伝授する園芸書も著します。初め、『華鏡』として世に出た本はその後『花菖培養録』と改題、何度も改訂版が出されました。現在でも原本や写本が何冊か残っており、花菖蒲愛好家のバイブルとして知られています。

このように、今日の花菖蒲の礎を築いた菖翁がつくり出した名花は、おそらく弟子や遺族を通じて間接的に堀切の花菖蒲園に伝わり、「菖翁花」として大切に受け継がれてきたと考えられています。今も現存する品種はわずか十数種類ですが、戦争など幾多の困難を乗り越え、200年近くもの間、株分けによって生き続けてきたとはまさに奇跡。今後も大切に守り継がれてほしいものです。

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