インタビュー・レポート

樹木希林のことばの種【梶川芳友さん×内田也哉子さん特別対談】

すべての始まり

すべての始まり
村上華岳(1888~1939年)の遺作。1963年、22歳の時、釈迦が座禅修行する姿を描いたこの作品を見た瞬間、身震いするほどの衝撃を受けたという梶川さん。「今も見るたび発見があります」。村上華岳 「太子樹下禅那」1938年 何必館・京都現代美術館

1枚の絵のもつ力を知りたいと通い続けた37年

梶川 樹木さんは、僕がこの美術館を開館した最初の頃にお見えになってね。僕は村上華岳の『太子樹下禅那(たいしじゅかぜんな)』という1枚の絵と出会ってしまい、この1枚の絵を見る最上の場をつくりたいという思いから、美術館が生まれたわけです。樹木さんには、そこまでさせた1枚の絵のもつ力を知りたいというのが、ものすごくありました。

内田 すべての人生が、1枚の絵を軸に回り始めた。

梶川 絵を見た瞬間に、必ず自分の手もとに来ると思ったのです。結局17年待ったけれど、絵が来る前から、美術館をつくり始めたのです。

内田 常軌を逸していますよね。

梶川 おかしいんです。だけど、それは目に見えないものを固く信じている。だから微塵の疑問もなかったんです。

内田 見事におかしい(笑)。まさに、目に見えないものに思いをどう馳せて生きていくのかを目の当たりにして、母は度肝を抜かれたんだと思います。

ジャコモ・マンズー

ジャコモ・マンズー 「枢機卿」1963年 何必館・京都現代美術館

「核心を突きつけられる快感というのがあった」—— 梶川さん

梶川 来年は開館して40年になりますが、樹木さんは37年間通い続けてらした。「梶川さんから、何か種をもらいに来るの」とよくいってられた。樹木さんがもっている直感力というか……ナイフみたいなところがあるでしょう?

内田 はい、そうですね。

梶川 物事の核心を突きつけられる快感というのがありましたね。

病気のおかげ——病を栄養にできた人

内田 私なんかは、自然と流れに身を任せて生きてきたっていう感覚ですけど、母はきっと、かき分けて自分に必要なものはこれだ、ととことん納得して摑み取ってきた人生だろうなと感じます。逆説的にいえば、そういう母のもとに生まれて育ったから、穏やかな波にぷかぷか浮かんでこられたのかもしれないけれど。本当に母の人生というのは……。

梶川 激しい人ですね。

内田 激しいですよね。もちろん晩年はエネルギーも衰えて、それをまたおもしろがってもいました。若いときは、それこそ近寄る者みな傷つけたぐらい、エネルギーの塊だったけれど。

梶川 転換点があるとするなら、病気だったと思います。

内田 そうなんでしょうね。

梶川 病気のおかげです。僕もそう。60歳のときに心筋梗塞になって、樹木さんもちょうど同じ頃にがんを患った。1か月ほど入院をしたんだけど、何というか、持ち時間の意識もかなり変わりました。そうすると価値観も変わってくるわけです。病気を栄養にできるか毒になるかは、それぞれによって違うけれど、樹木さんは、やっぱり栄養にしたのかな。もし病気をしなかったら、あのままぐわっと激しく行った人かもしれないですよ(笑)。

内田 それもそれで恐ろしい(笑)。

梶川芳友さん

1枚の絵との出会いに突き動かされ、美術館をつくる。その情熱は、作品を鑑賞するための空間の隅々にまで注ぎ込まれている。

梶川芳友(かじかわ・よしとも)さん
1941年京都市生まれ。81年に何必館・京都現代美術館を創設、館長となり現在に至る。エッセイスト、クリエイティブディレクターとしても活躍。編書に『村上華岳』『パウル・クレー』『魯山人への手紙』『私の良寛』など。

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