インタビュー・レポート
2018/12/18
70年代歌謡界のスターたち ブラウン管のカラーテレビが全国に普及した1970年代、歌番組は家族揃って楽しめる娯楽でした。“スター”“アイドル”と呼ばれた歌手たちとその歌は、私たちにときめきと夢を与えてくれたものです。そんな歌謡曲の黄金時代を、前編では歌番組の司会者だった芳村真理さん、11月に文化功労者に選出された作曲家の都倉俊一さんとともに振り返ります。
伝説の歌番組『夜のヒットスタジオ』の名司会者・芳村真理さんと、トップメロディメーカーの都倉俊一さん。70年代のスターやアイドルを生み育ててきた二人が、今だから話せる裏話や、これからのエンターテインメントへの思いを語ってくれました。
芳村さん・ジャケット71万円 ファーストール27万円 キュロット19万8000円 イヤリング13万5000円 靴9万4000円/すべてジョルジオ アルマーニ(ジョルジオ アルマーニ ジャパン)
右/メディアパーソナリティー 芳村真理さん
左/作曲家・プロデューサー 都倉俊一さん
芳村 70年代は音楽が大きく変わったときでしたね。都倉さんが山本リンダに作った「どうにもとまらない」は衝撃的でした。
テレビもフジの『夜のヒットスタジオ』、日本テレビの『スター誕生!』、TBSの『ザ・ベストテン』、NHKの『レッツゴーヤング』、各局に大きな音楽番組があって。
都倉 スタ誕で歌手が生まれ、ヒットスタジオに出してもらうことでスターとして認められる、そういう流れがありましたね。出演した翌日はレコードの売り上げがうんと上がったものです。
芳村 都倉さんは売れっ子の曲をたくさん作ってらしたから、すごくお忙しかったでしょう?
都倉 僕は一時期最高で26人のアーティストを抱えていたんですが、当時、ピンク・レディーのような売れっ子はシングルを3か月に1枚、アルバムを年に2枚のペースで出していたんですね。そのほかにコマーシャルソングなどもあり、寝る時間がなかったです。
芳村 26人も! 全盛期のピンク・レディーは本当に忙しかったわよね。ヒットスタジオに出演するときも、ギリギリに飛び込んできてすぐ本番、でした。
子どもたちがみんな歌と振り付けをまねしていたわよね。あんなに次々曲を作るのは大変だったでしょう?
都倉 このままだと死ぬと思いましたね(笑)。でも、誰かを引き受けて、誰かを断るということはできないわけです。日本人的な発想だけど、全部やるか、全部やめるかしかない。
それで僕はスター誕生をやめたときに全部やめて、ロサンゼルスに拠点を移したんです。向こうで新しく始めたミュージカルの制作は、僕のライフワークになっています。
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