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1300年前より受け継がれてきた「有職故実」に触れる 成年式の宮中装束

2026.03.04

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【特別企画】慶祝「成年式」によせて 悠仁親王殿下 令和7年9月6日、秋篠宮家ご長男の悠仁(ひさひと)親王殿下は19歳のお誕生日をお迎えになり、快晴の下、古式ゆかしく「成年式」が執り行われました。秋篠宮皇嗣殿下の成年式以来、40年ぶりのことでした。成年式は皇族の男子が成年に達せられたときに行われる「元服」に由来する儀式で、奈良時代より1300年の時を超えて、連綿と受け継がれてきました。ご慶事にあたり、成年式に臨まれた悠仁さまのご様子と19年にわたるご成長の軌跡を辿ります。

・「特別企画 慶祝『成年式』によせて 悠仁親王殿下」の記事一覧はこちら>>>

1300年前より受け継がれてきた「有職故実」に触れる
成年式の宮中装束

解説/霞会館記念学習院ミュージアム EF共同研究員 田中 潤先生

平安絵巻を彷彿させる古式ゆかしき装束で宮殿へ入ってこられた悠仁さま。皇室で成年式が執り行われたのは、昭和60年11月の秋篠宮皇嗣殿下以来40年ぶりのことです。殿下の成年式は冬装束でしたが、この度は夏装束のため、ほとんどの御料が新調されたといいます。古来より受け継がれてきた日本文化の結晶ともいえる「宮中装束」について、有職故実を専門とされる霞会館記念学習院ミュージアム研究員の田中 潤先生に解説していただきました。


成年式とは、皇族の男子が成年に達したことを示す儀式「元服」が起源で、古くは聖武天皇の元服の折の記録が残っています。ただし、現在の装束のルーツともいうべき平安時代の宮中装束は、往時のままの姿で継承されてきたわけではありません。断絶の危機と再興への努力の一端に触れてみましょう。長く続いた戦国の動乱が終わり、徳川幕府による泰平の時代になると、荒廃していた宮中文化は、幕府の保護の下で再興され、装束もまた古式に則り、復興していきました。

海外に向け視覚化された日本の伝統

右・「空頂黒幘」。文字どおり頂が空いた額当て。薄い絹織物の羅に十六葉八重表菊紋を刺繡して2枚重ね、中央の峰が高い三山形としたものを3片並べて、下には瑞鳥唐草の刺繡が施された紫の細い紐をつけた構造。40年前、秋篠宮皇嗣殿下が着用されたものを受け継がれた。左・「横目扇」。着袴の儀に際し使われたもの。元来は杉の板目の薄板を用い、子ども用を意味した。現在は檜柾目で作られた檜扇で、朱赤、白、緑、紫、黄、桃色6色の飾り糸と糸花(いとばな)と呼ばれる造花がついている。

右・「空頂黒幘」。文字どおり頂が空いた額当て。薄い絹織物の羅に十六葉八重表菊紋を刺繡して2枚重ね、中央の峰が高い三山形としたものを3片並べて、下には瑞鳥唐草の刺繡が施された紫の細い紐をつけた構造。40年前、秋篠宮皇嗣殿下が着用されたものを受け継がれた。左・「横目扇」。着袴の儀に際し使われたもの。元来は杉の板目の薄板を用い、子ども用を意味した。現在は檜柾目で作られた檜扇で、朱赤、白、緑、紫、黄、桃色6色の飾り糸と糸花(いとばな)と呼ばれる造花がついている。


宮中装束を取り巻く環境が急変したのは明治時代です。積極的な欧風化の下で洋装が導入されましたが、明治天皇は旧儀保存の思し召しにより、宮中祭祀・宮中行事・神事においては、装束を着ることでその伝統を残そうとなさいました。大正・昭和の大礼や皇族方の結婚の儀、神宮式年遷宮などでの着用がその例です。「この背景には、西欧列強諸国のように、自国の伝統の上に近代化を成し遂げた立憲君主国家『日本』の姿を視覚化するうえで、宮中装束は魅力的であったのではないか」と、田中先生は語ります。

話を成年式に戻しましょう。「加冠の儀」は実は戦前まで宮中三殿・賢所で行われていました。現在の様式で行われるようになったのは戦後のことです。広く国民に向けて開かれた皇室像が伝えられるようになったことで、私たちは40年ぶりの貴重な歴史的瞬間に立ち会うことができたといえるでしょう。

「悠然たるご所作の裏に入念なお稽古の日々」と関係者は語る

準備の一端に触れてみましょう。事前の検討を踏まえて装束の製作に取りかかったのは令和6年9月のこと。採寸に始まり、生地ができ上がり、仮縫いへと進み、装束の完成までには9か月を要しました。そして、悠仁さまの儀式における所作のお稽古は1か月に及びました。「実際に装束をお召しになってのリハーサル『習礼(しゅらい)』は1回でしたが、それ以外に平服で2度の習礼をなさり、折に触れて立ち居振る舞いの稽古を重ねていらっしゃいました。宮殿での習礼ではご移動について、入念にタイミングを確認されていました。6メートルもの下襲の裾を持つ小山皇嗣職宮務官長の動きをよく読み込み歩かなければならないからです」とおそばで見守った関係者は語ります。長い裾は常に真っすぐ伸びて美しく、一つ一つの所作は悠然として、成年式はまさに王朝絵巻さながらの厳かなものとなりました。

古式ゆかしい華麗な装いを今に伝える衣紋道

悠仁さまが、加冠の儀でお召しになったのは「闕腋袍」の束帯といいます。平安時代以降の公家装束の正装を束帯と呼び、最も上に着ているものが「袍」です。生地の色目と地文が身位を表しています。かつて品位(ほんい)を持たない親王である無(むほん)品親王がお召しになった色が浅黄色であり、男性皇族を表すのが雲鶴文様です。袍には脇を縫いとじてある「縫腋袍」と脇が空いた闕腋袍の2種類があり、成年は前者、未成年は後者を用います。成年の袍は地文は同じながらも、色目は天皇陛下と皇嗣殿下を除く成年男性皇族が用いる黒地に変わります。

束帯は一人で着ることはできません。公家装束や女房装束を着付ける際に、必要な技術や知識を体系化した「衣紋道(えもんどう)」に精通した衣紋方が、前衣紋者と後衣紋者の2人でお服上げをします。衣紋道は、宮内庁と一般社団法人霞会館・衣紋道研究会などによって、今に継承されています。

田中先生に教わる日本人の美意識の結晶「束帯姿の美」

悠仁さまの束帯姿には受け継がれてきた日本人の美意識が凝縮されています。「闕腋袍」の束帯姿を例に着目すべき点を教えていただきました。「夏の料の美しさは張りのある袍の立体的なフォルムにあります。袖先を畳み込んで美しい襞を作ることも約束事で、衣紋道を継承する山科流では2つの襞を作ります。また、生地を透かして見える透過色の美も見逃せません。懐の帖紙(たとう)がうっすら見える妙味は視覚的な涼感を醸し出しています。次に表袴の裾を見てみましょう。裏地の赤を1センチほど白の表地に返して仕立ててあり『お退(め)り』と呼ばれます。下の大口袴の赤と相まって、裾の高さをずらすことで紅白の『重ねの美』を可視化しています。また、長く引いた黄色い後ろ身頃と赤い下襲も、裾の長さを意図的に違えて色彩の装飾的効果を狙い、美しい重ねが見えるよう着付けられています」。

未成年の正装 〈束帯・闕腋袍(けってきのほう)〉

左・冠を加えられて「空頂黒幘」をお外しになり、「燕尾纓(えんびのえい)」の冠を召された悠仁さま。右・「加冠の儀」に臨まれた未成年の束帯姿。頭にはかつて秋篠宮皇嗣殿下が成年式で使われた「空頂黒幘」。

右・「加冠の儀」に臨まれた未成年の束帯姿。頭にはかつて秋篠宮皇嗣殿下が成年式で使われた「空頂黒幘」。左・冠を加えられて「空頂黒幘」をお外しになり、「燕尾纓(えんびのえい)」の冠を召された悠仁さま。


頭には「空頂黒幘(くうちょうこくさく)」をつけられ「闕腋袍」の束帯をお召しになった悠仁さま。お手にはご自身の「着袴(ちゃっこ)の儀・深曾木の儀」で用いられた「横目扇」。お足もとは「絲鞋(しかい)」という白い絹紐で編んだ沓(くつ)。全体に吉祥を意味する菱形の透かし文様が入っています。

成年の正装〈束帯・縫腋袍(ほうえきのほう)〉

闕腋袍とは異なり縫腋袍には裾に襽(らん)と呼ばれる横裂がつき、下襲の裾のみが見える。

闕腋袍とは異なり縫腋袍には裾に襽(らん)と呼ばれる横裂がつき、下襲の裾のみが見える。


脇が縫い合わせられ、古くは成年の文官の装束だった「縫腋袍」。冠の纓は燕尾纓から「垂纓(すいえい)」になり、お手には笏。笏とは儀式において威儀を正すために手に持つもの。お足もとは「鞾(かのくつ)」。革製の黒漆塗りで履き口に表袴の裾を入れ込んで履きます。

(次回へ続く。)

この記事の掲載号

『家庭画報』2026年03月号

家庭画報 2026年03月号

写真/宮内庁提供(33~42ページ上・中、43、45、46ページ右下を除く7点、47、48ページ左下2点を除く4点、49ページ左上を除く5点、51ページ上)朝日新聞社(42ページ下、46ページ右下、49ページ左上、50ページ中・下2点、51ページ下)時事通信社(48ページ左下2点ともにブータン王室広報局提供)文様(32~33ページ『平安文様』八條忠基著 マール社)撮影/本誌・坂本正行(44ページ、50ページ上) 構成・取材・文/阿部聖子

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