うつろいにけり鼻の色
昔の言葉で、
「鼻白む」
というのがあります。「ハナジロム」と読むことは、この欄の読者がたなら誰でもご存知でしょう。
「ハナジラム」でも、「ハナシラム」でもないことは言うまでもありません。
しかし、念のためにと辞書を引いてみると、「ヘエ」と驚くような説明がありました。
「気おくれした顔をする」
「おじける」
という解釈が、まず最初に出てくるのです。
私はこれまで何十年も文章を書いて生活してきたのですが、自分の本の中で、そんな語感で「鼻白む」を使ったことは一度もありませんでした。
痛みのツボは百人百様
「無粋(ぶすい)な話に鼻白(はなじろ)む」
という用例が出ていますが、それならわかる。
なんとなく「シラケル」といった感じですね。友達との楽しい会話のなかで、突然、貯金の話などをもちだす人がいて、全員がふっと無口になってしまう、そういう瞬間の感じを「鼻白む」と言うのでしょうか。
人がひそかにコンプレックスを感じているところを、さも自慢げに喋ったりするのも、「鼻白む」行為の一つです。
ムッとする、というほど人の感情を逆なでする行為ではないのですが、とにかく「ハナジロム」。
ふと沈黙の時間がおとずれて、
「じゃ、この辺できょうはお開きにしましょうか」
と誰かが言いだすのを待つ、その瞬間が、なんとなくツラい。
「そこいらの若い子じゃないんだから」
などと、つい口が滑ってしまって、折角楽しく喋っていた座がシンとする。
「あ、まずい」
と、思ったときは、もうおそいのです。
前に〈アンコンシャス・バイアス〉という面倒な話を書いたことがありました。直訳すれば〈無意識の偏見〉。
正直な人ほど、他人のコンプレックスを逆なでするような言葉を吐きがちなもの。
〈偏見〉のない人なんて、いません。私たちの心の底には、思いもよらない偏見や傲慢さがひそんでいるものです。つい、それが気楽なお喋りの場で思わず顔を出す。
「謙遜」という言葉を誤解して、自分を卑下すればいいだろうと思っている人もいます。
人の心の痛みのツボは、百人百様で、気をつけていても、つい触れてしまうこともあるのです。
しかし、そんなことをいちいち気にしたりしていたら、気楽なお喋りもできやしない、と思われるかもしれません。
たしかにそうです。他人の心を無意識に傷つけたりするのがこわくて、つい無口になりがちな人も少なくないでしょう。
無口に過ぎると陰険だと言われる。喋り過ぎると無神経だと思われる。「とかくに人の世は住みにくい」ものです。
人のことをあれこれ言うのはまずい。じゃあ、自分の失敗談ならいいだろう、と思う人もいて、延々と自分をけなし続ける人もいます。これもなんとなく「鼻白む」場面。
無邪気な自慢ばなしは許せるが、度の過ぎた謙遜は聴くのがツライ。
じゃあ、どうなんだ、という話になると、これまた厄介なものです。
「そこまで気をつかって皆さんとおつき合いすることは、ないんじゃないですか」
と、居直るかたもいらっしゃるかもしれません。
しかし、この社会に暮らしていて、完全孤立して生きることは、これまた難(かた)きかな、です。
人間社会に生きる難しさ
要するに人々と仲よくやっていくことは、けっこう難しい。
詮索(せんさく)好きな人は必ずいるもので、控え目に振舞っていると、なおさらその手の人の好奇心を刺激する場合もある。
「それじゃ、逃げ場がないじゃありませんか」
そうです。人が世の中に生きていくということは、逃げ場がない。今の世の中で〈世捨てびと〉として生きることは、かえって他人の好奇心を刺激することになりかねない。
では、結局、どうすればいいのか。故・美輪明宏さんのようなかたなら、一刀両断、胸のすくようなアドバイスを示してくれたかもしれません。しかし、なにか客観的な意見がほしい、と、だれもが思います。
『ハムレット』のなかの、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」というのは、要するに生理的な話ではなく、この世の中、人間社会に生きる難しさを語っているのではないかと思うことがあります。
「とかくに人の世は住みにくい」
これは千古の名言です。
結論は?と問われれば、「生きるということは、ままならないもの」だと覚悟するしかない。
〈鼻白む〉答えというのは、たぶんこのことかもしれません。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》糖分をとり過ぎるとダメ、塩分をとり過ぎるのもダメ、健康の情報は日常生活を味気なくするばかり。そこで1か月おきに、健康生活と、アンチ健康生活をくり返してみることにしました。乞うご期待。