記憶の相続について
ときどき独りでぼんやりしている時間があります。そんな時に、ふと自分の一生をふり返って後悔することがいろいろあります。
後悔、先に立たず、などと言いますが、いまさらどうしようもないことで、残念に思うことがいくつもあるので。
両親のことを知らない口惜しさ
あの時、こうすればよかったとか、なぜそうしなかったんだろうか、とか、ただ、ため息をつくばかり。
そのなかの一つが、両親のことをほとんど知らない、ということです。 自分が子供の頃の話は、なんとなく聞かされて知っている。幼い頃の写真もあります。自分自身の記憶もある。
しかし、私は両親のことに関して、自分がほとんど何も知らないことに高校生の頃になって気づきました。
そしてその頃、母はすでに亡くなっていたのです。 私は母がどんな子供時代を過ごしたかを知りません。母の実家は九州山地の、かなり奥の山村でした。
敗戦後、内地に引揚げてきてしばらくのあいだ私たち家族は、その家にお世話になって暮らしました。
当時は電気も水道もない山間の集落です。小学校に通うために、何キロかの山道をたどらなければならなかったはずです。当時はランプの下で勉強にはげんだものでした。
母は小学校を卒業したあと、福岡の女子師範学校へ進学したようです。はたして山村の農家の子女に、どのようないきさつでそれが可能だったのかは、今は知るよしもありません。
私の子供の頃、母はすでに小学校の教師として働いていたのです。
私の父親も、同じように山村の農家の子弟でした。奇(く)しくも山一つへだてた農家の出身です。
父は長男ではありませんでした。長子相続の農家の次男、三男は、それぞれの才覚に応じて身を立てなければなりません。
父親は教育者になる道を選び、北九州の小倉師範学校へ進学しました。さして裕福とも思えない山村の農家出身の子弟が、どのようにして進学しえたかは、謎です。
いずれにせよ、私が物心ついた時は、二人が結婚し、外地に進路を求めて九州を離れ、共に小学校教師として勤務していたようです。
私の幼い頃の母の記憶は、毎朝、革のカバンをさげて、早足で勤務先へ急ぐうしろ姿でした。
小学校の仕事が忙しい時には、母は暗くなって帰ってきます。急いで食事のしたくをして、食事がすむと、父は玄関の小部屋で検定試験のための勉強にかかります。
母はカバン一杯につめこんできた生徒の答案や、その他の事務関係の書類と鉛筆をなめなめ取り組んで、おそくまで起きています。
敗戦当時は、私たち一家は、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)という街に住んでいました。
父は平壌師範学校の教師、母は山手小学校という学校に勤めていました。共に忙しく働き、子供の私にそれぞれの過去を語ってくれる余裕はなかったのです。
そんなわけで、私は両親の歩んだ道、学生時代の頃のこと、二人がどうして知り合い、どうして結婚し、どのように私が生まれ、なぜ本土を離れて当時の外地へ渡ったかなどについて全く知ることなく育ったのでした。
子供が相続する最大のもの
敗戦後まもなく、ソ連軍がやってきて、その騒ぎのなかで母は不遇(ふぐう)の死をとげました。父と私は幼い弟と妹をつれて平壌を脱出し、いわば脱北して南の米軍キャンプに収容され、やがて博多港へ運ばれました。
そんな暮らしのなかで、両親から落着いて若い頃の話を聴くことなしに、日が過ぎてしまったのです。
私が作家として自立し、何十年かたったある日、九州の読者から一枚の写真が送られてきました。
それは白いスポーツウェアを着て、テニスのラケットを持った若い女性の写真でした。
変色した写真ではありますが、そこに写っていたのは、まごうことなき母親の二十代の頃の姿でした。私は母親の青春を、私が生まれた時の生活を、全く知らないままに齢(とし)を重ねてきたのです。
私にとって最大の人生の後悔は、なぜ両親から、それぞれの回想を聴くことができなかったのか、という一点につきます。
親は子供に、みずからの人生を丹念に語ってきかせる義務がある。子供が相続する最大のものは、両親の若き日の物語りだ。そう私は考えているのです。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》ステージⅡの咽頭がんが、奇跡的に半年で完治した話を書いたところが、新聞ではがんになった事だけを記事にされて、お見舞いが殺到して参りました。いまは連載八本を抱えて快調に執筆生活を続けています。