お世辞の効用
昔の英雄、偉人の伝記を読んでいて、不思議に思うことがあります。
それは、後世にも語りつがれるほど偉大な人々が、なぜか軽薄な人材を周囲におきたがることです。
それほど思慮ぶかいとも思えない人物を重用(ちょうよう)したり、逆に誠実そのものの部下を遠ざけたりする。そして、どうでもいい側近を何人も身近に登用したりする例は、挙(あ)げるにいとまがありません。
思慮ぶかい人物なら、ひと目で「こいつはC調な奴だな」と感じるような人物が、偉大な人物のおそばにつかえた例は、挙げるにいとまがありません。
優れた君主が選ぶ凡庸な側近
優れた人材をスカウトするのが、乱世のリーダーの条件とされるにもかかわらず、さほど思慮ぶかいとも思われない軽薄な人材が大きな顔をして主君のそばに張りついているのは、心ある人々から見ると、さぞ苦々しい思いがしたことでしょう。
人並み優れた主君が、なぜ凡庸軽薄な連中を身近に側近としておくのか。
言葉にこそださね、苦々しい思いで溜め息をついていた忠臣たちも、さぞ多くいたことと思われます。
人並み以上に優れたリーダーにとって、誰が見てもチャラチャラした軽薄才子の横行は、納得のいかないことだったはず。
優れた人材の登用こそが、乱世を勝ち抜く不可欠な条件であるにもかかわらず、実際には必ずしもそうではない例を、私たちは奇異な感じで眺めることが少なくないのです。
その理由は、主人公が実は凡庸で、真の知者ではないことにある、と言えば、けげんな顔をなさるかたも多いことでしょう。
しかし、歴史上の偉大な人物の周辺にいた人物、すなわち側近の臣下たちは、彼らが凡庸で、特に優れた感性の持主でないことによって主君の身近に取り立てられたのだ、と私は思います。
大した才能の持主でない主君につかえるには、その主君より優れた才能の持主ではまずいのです。
「こういう案はどうだ」
と、主君が自慢げに提案したとき、即座に、
「殿、それはいけませぬ。なぜならば──」
と、とうとうと直言をのべ、主君の意見を批判するような側近はいらないのではないか。
周囲の意見を素直に聴くような主君が、必ずしも優れているとは限りません。しかし、一国一城の主(あるじ)となる人物のほうが識見、予測に優れている場合も多々あるはずです。
「この手でいくぞ」
と、主君が自信をもって発言したときに、無責任に「さすがでございます」と、軽薄に賛同する側近のほうが、主君にとっては好ましい場合もあるのです。
独断も一つの選択
自分より優れた才能の持主を部下にすることが、必ずしも有利だとは限らない。
どんな高い身分の人物であっても、それなりの迷いもあれば不安もある。リーダーは自分の意見で行動したいものです。責任は自分でとる、という決意にもとづいて勝敗を賭ける。
優れたアドバイザーを身近におく、というのは、すべての事業においての常識です。しかし、最後に責任をとるべきなのは、自分ひとりです。独断も一つの選択ではないでしょうか。独断のあやうさを知る主君ほど、おのれの決断にきびしいはず。
周囲に凡庸(ぼんよう)な人物しかおかない人間の厳しさというものもあるのではないか。
結局、人間は最後は自分ひとりで生きるのですから。
孤独な人物ほど、周囲に凡庸な人物をおきたがるものです。パートナーというのもそうです。リーダーとは孤独なもの。最後は自分ひとり、という決意がなくては真のリーダーにはなれない。
友を選べば書を読みて──
と、歌いながらも、どこかで凡庸な友と親しむことを選ぶのは、決して凡庸だからではないと思うのです。
それにしても、昔は勝手な歌をうたっていたものですね。ルックス、教養、それに優しさまでをかねそなえた相手を望む前に、自分を虚心に点検する気持ちはなかったのでしょうか。
もし今、同じテーマで歌を作ったら、一体どんな歌詞になるだろうと想像しないではいられません。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》そろそろ「寒い夏」が近づいてきました。冷房が大の苦手なので、お店にはいっても冷風のこない場所を探すのにひと苦労です。いつもスカーフを持ち歩いていますが。