噓と誇張のあいだには
「ウソをつくと閻魔(えんま)さんに舌を抜かれるよ」
とは、むかしよく言われた言葉です。
私は子供の頃から、しばしば噓をつきました。今でも作家として、公然と噓を物語に仕立てあげたりしています。
作家としての才能の一端は、〈上手なウソツキ〉という要素もないわけではありません。
作家の才能は、上手なウソ
しかし、無邪気な噓、というのは許せますが、悪意のある噓は許せません。
「あら、あら、あんたって本当にウソつきねえ。もう欺されないわよ」
などと、頰っぺたを指でツンツンされるような噓はほおえましいものですが、悪意のある噓は許せない。
「また、また、あんたって平気な顔してウソをつくんだから。そんな話、わたしが信じるとでも思ってるの」
と、ちょっとコワい顔でにらまれると、
「いや、いまのは冗談、冗談。どうせ信じやしないだろうけどね」
などと、手を振ったりもする。そんなたあいのない会話をカフェで盗みぎきすると、こちらが叱られているような気になったりもするのです。
もっと気軽な会話の中では、噓ではないけど、ちょっと誇張がすぎると思うような話題も飛びかいます。
「なんで、あの人って見えすいたウソをつくのかしらね。こないだもさ──」
と、友人、知人の無邪気な噓を容赦なくあげつらうかたもいらっしゃる。
「え? それホント? 本当にそんなこと言いふらしてるの? バカねえ、すぐバレることじゃない」
「そうなんだけどね、でも、本人がそう言うんだから。まさか卒業証書見せろって言うわけにもいかないしさ」
「いまどき学歴自慢なんて流行らないのにねえ」
「きっとコンプレックスが強いんじゃないのかな」
「そうよ。アクセサリーだって、なんとなくパチモンくさいしね」
〈パチモン〉などという言葉をスラッと使ったりするところが、ちょっと気になるお人柄ではあります。
私は九州、福岡の出身ですが、一般に九州人は、話がおおげさになりすぎる習性があるようです。十センチぐらいの小魚を釣っても、「きのうは、こんくらいのサカナば釣ったバッテン、可哀相やけん、放してやったばい」などと両手を広げたりする。聞いているほうも、首をすくめて笑いをこらえている。
まあ、こんな罪のない噓はともかく、友人のあいだでも噓を平気でつく人がいないわけではありません。
ごく自然にスラッと話をするので、つい信じてしまうと、まもなくそれが噓だとわかってしまう。見栄をはるのは人間の性(さが)ですが、
「また、また、あなた、話がオーバーなんだから」 と、笑われるくらいの噓ならともかく、友人に張り合う感じの噓は、どこかに無理があるのです。
と、いって、なんでも露悪的にさらけだすというのも興ざめではあります。噓と誇張のあいだ、といいますか、やはり自然がいちばんでしょう。
噓には、かわいい噓というのもある。噓、と漢字で書くより「ウソ」とカタカナで書くほうが似合いそうな幼稚な噓。
こちらのほうは、まだ許せるのですが、ときには本当に興ざめするような噓を平気でつく人もいる。
ちょっとオーバーかな、と思わせるくらいで自慢話にとどめておいたほうが無難でしょう。
噓とお金は使いよう
相手がシラジラしい噓をついた場合は、その理由を考えるほうがいい。
「それ、ウソでしょう!」
と、正面から否定するよりも、黙って聞くだけ聞くしかありません。
噓には、三つあると思う。悪意のあるウソと、善意のウソ。そして、もう一つは「切(せつ)ないウソ」。「切ないウソ」というのは、文字どおり、そう言わざるをえないような、苦しいウソです。
悪意のある噓に対しては、無関心のふりをしていればよい。
善意のウソには控え目に応待する。
「ちょっと悩んでることがあって、ゆうべは一睡もできなかったの。ひどい顔してるでしょう? ごめんなさいね」
と言ったとき、相手が笑顔で、
「いいえ、ぜんぜんそんなふうには見えませんけど。お元気そうですよ」
と返してきたときには、
「そう?。ありがとう。元気がでたわ」
と、笑顔でこたえる。そんなやりとりで世の中はスムーズに回っていくのです。
〈噓も方便(ほうべん)〉
という言葉がありますが、
〈噓とお金は使いよう〉
と、いうのはどうでしょうか。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》最近、めずらしくTVに何度か出たのですが、着ている服がぜんぶ同じで反省しました。去年の秋からずっと同じ服装だったのです。今年こそ新しい服を買おうと決心しているところ。『家庭画報』も、高齢男性ファッションの特集でもしないかな。