〔新春スペシャル異世代同郷対談〕五木寛之(作家)藤井フミヤ(ミュージシャン) ふるさとへの思い、平和への願い 2026年に作家デビュー60年を迎えられる文壇の重鎮、五木寛之さんと、ミュージシャンとして40年以上にわたって第一線で活躍されている藤井フミヤさんは同じ九州・福岡のご出身。唯一無二の文学と音楽で多くの人々に喜びや感動をもたらしているお二人が、ふるさと、創作活動、平和などをテーマに、思いの丈を語り合ってくださいました。
久留米と八女、筑後の地で育って
藤井──五木さんは八女のご出身ですよね。僕は隣の久留米です。
五木──八女は歴史と伝統のある土地ですけど、田舎ですからね。買い物などで久留米に出かけるときは、ちょっと緊張しました。藤井さん、久留米はどのあたりですか?
藤井──僕は耳納(みのう)連山を越えたところ、高良(こうら)山の麓です。山川町という町なんですが、名前のとおり、耳納連山と筑後川に挟まれてるちっちゃな町で、ほとんど田んぼでした。
藤井さんのふるさと久留米市は福岡県で人口3位の都市ながら、自然も豊か。「耳納連山(写真)と筑後川に挟まれた町で育ちました」。写真/撮るねっと / PIXTA(ピクスタ)
五木──ああ、高良山のほうでしたか。
藤井──五木さんは大学に行かれるまでは八女にいらしたんですか。
五木──ええ、八女の福島という町です。
藤井──八女といえば、お茶が有名ですね。
五木──両親の実家も両方ともお茶も作ってました。お茶とかみかんとかタケノコとかね。でも、私の家族は引揚者だったので、生活はなかなか苦しくて、夏休みには、僕もアルバイトでお茶の行商をしていました。自転車にお茶箱を積んで峠を越えて。商人宿に泊まりながら、3日か4日の行程でしたね。
藤井──かなり遠くまで自転車で行かれたんですね。
五木──お茶は軽いからできたんです。八女茶の高級なのは、とても高いんだけど、その頃は炭鉱景気の最中だから、街角で茶箱を開けると、「一番よかとばくれ」なんて声がかかって、どんどん売れました。
藤井──玉露から売れていくみたいな? 高校生の頃の話ですか。
「デラシネなんていってるけど、地縁というのは、一生消えません」──五木
五木──中学3年から高校を出るまでですね。八女茶のおかげでなんとか大学へ行けました。だから、デラシネ(根なし草)なんて自分でいってるけど、そういう地縁というのは一生消えません。藤井さんが筑後の出身と知ったら親しみが湧いて、テレビに出ている藤井さんを見る目が変わりましたから。
「どこに行こうが、どこに住もうが、ふるさとは久留米のままです」──藤井
藤井──国籍は変えられても、ふるさとは変えられないですものね。どこに行こうが、どこに住もうが、ふるさとは久留米のままです。
五木──藤井さん、言葉のイントネーションに九州弁がないね。僕はいつだったか、福岡で小学生に方言で道を聞いたら、怪訝な顔されちゃって。最近の小学生は方言を使わないのだなとびっくりしました。
藤井──逆にティーンネージャーぐらいになってくると、使うのかもしれないですね? 語尾に「たい」を付けたり。うちの弟は今も九州のアクセントが抜けませんよ。僕も福岡に帰ると、飛行機が空港に着いた瞬間から、急にスイッチが入ったかのように九州の言葉になりますよ。うちはマネージャーも九州出身で、「今日なんば食べようか」となります。
五木──僕は方言が大好きです。情緒があっていいですよね。特に女性は。
藤井──僕も好きです。九州だけでなく、東北の言葉とかも好きですね。東北の人はちょっとコンプレックスがあるみたいですけど、女性がいわゆるズーズー弁みたいな言葉をしゃべっていると、かわいいなと思います。
和讃の詞を何百も残した親鸞は宗教界最大の作詞家
藤井──八女にいらしたときから、小説家を目指されていたんですか。
五木──そんな大げさなことではありませんが、中学の頃から同人雑誌みたいなのをやっていて、高校に入るとすぐ新聞部を立ち上げたんですよ。その新聞に小説を連載しましたが、あんまり人気がないんで、途中でやめました(笑)。
「今日は範宴(はんねん)が師の法然に会うような気持ちで来ました」──藤井
お洒落なお二人は自前の衣装でご登場。ジャケットにスニーカーという藤井さんのいでたちについて、五木さんは「全然違うものを調和させている。アーティストの感覚だね」と感心しきり。
藤井──早くから文章を書くのはお好きだったんですね。僕は今日五木さんにお会いできるというので、もう一回『親鸞』を読み直して、範宴(はんねん)(親鸞の若き日の戒名)が法然上人に会うような気持ちで来ました。ようやくお会いできたという思いです。
藤井さんは自宅から五木さんの著書を持参。
五木──いや、藤井さんから法然の名前を聞くとは思ってもいなかったな。
藤井──うちが西本願寺(浄土真宗本願寺派)だったことから興味を持って、十数年前に読みました。本に感銘を受けて、親鸞聖人が修行した延暦寺にも行ったんですよ。浄土真宗は「南無阿弥陀仏」しか唱えないじゃないですか? それがなぜなのかずっと気になっていたんですが、『親鸞』でその理由を知ることができて、自分が西本願寺であり続けることへの迷いのようなものがなくなり、このままでいいんだと思えるようになりました。
五木さんはなぜ、親鸞について書こうと思われたんですか。空海とか、仏教界にはほかにもスーパースターはいるじゃないですか。
五木──僕の家も浄土真宗ではありますが、僕は最初、蓮如という人に関心を持ったんです。蓮如を調べているうちに親鸞の志を継いだ人だとわかって。その親鸞は「悪人正機」、つまり善人より悪人のほうが救われなければならないのだと説いた。平安時代まで、善人は救われ、悪人は地獄へ行くという思想だったなかで、そんなことをいうなんて、親鸞とは一体どういう人だろうと興味が湧いたんです。僕は自分が悪人だと思ってるから。
藤井──五木さんが悪人ですか?
五木──僕は終戦後、旧ソ連軍が来た北朝鮮から引き揚げてきたんです。その過程では、満員のトラックに無理に後から乗ろうとする人を蹴落として乗せなかったこともある。善き人が逝き、悪人だけが生き残ったという罪悪感は、青春時代には耐えられないものでした。
藤井──そうしたトラウマが、ずっとあるんですね。『大河の一滴』にもそんな場面がありました。
「親鸞は一筋に阿弥陀仏。“TRUELOVE”なんですよ」──五木
写真/Yasuyuki Imai /PIXTA(ピクスタ)
五木──「俺はまともに見えて、真は悪人だ」と少年時代から思っているから、「悪人正機」を唱えた親鸞に救われたんです。自分も生きていく権利があるんだと思えてね。親鸞は、弥陀一仏というんですけど、もう一筋に阿弥陀仏。これ、TRUE LOVEなんですよ。
藤井──TRUE LOVE。
五木──それとね、親鸞は日本の宗教界最大の作詞家でもあるんです。念仏の元締めみたいに思われていますが、比叡山延暦寺という当時の総合大学で勉強しています。そこでは仏やその教えを日本語で称える歌「和讃」を学ぶ。だから親鸞は歌がうまかったと僕は思っているんです。
藤井──昔のお坊さんは歌うようにお経を読んだそうですね。
五木──そうです、節を付けてね。親鸞は90歳まで生きたんですが、晩年の70、80代は、和讃の歌詞を何百も書いている。和讃の原型は平安時代に一世を風靡した「今様」で、今様というのは当時の流行歌のことです。
藤井──とすると、親鸞はメロディも作ったということですよね。でも、当時は音符もなかったから、譜面は残っていませんよね。
五木──そう。今様がどんなメロディだったかというのは、研究家宿望の的です。
藤井──昔の日本は楽器も少なかったし、西洋音階ではないので、大体、お経みたいなメロディだったんじゃないでしょうか。
五木──和讃には、宗教的な歌だけでなく、親が子を思う歌や恋愛の歌、当時のファッションを歌うラップみたいなものもあった。
藤井──ラップですか(笑)。
五木──若い人もお年寄りも、みんなが夜通し、蝋燭の光の下で口ずさむ。宗教というのは、お坊さんのお説教で広がったんじゃなくて、音楽で広がったんですね。
藤井──キリスト教もそうですもんね。
五木──おっしゃるとおりですね。親鸞の和讃、今度送りますのでご覧ください。藤井さんも、ずいぶん作詞をおやりですよね。
口伝えで広がり、歌い継がれるのが流行歌
藤井──はい。歌の言葉というのは、あまり難しい日本語だと伝わらないんですよね。なので、中学生レベルでわかる言葉しか使いません。画数の多そうな漢字はなし(笑)。最近は英語で歌詞を書くことも多いのですが、英語の場合も同じです。あとは、音符に合わせるとき、英語なら「アイ・ラブ・ユー」の3音でいえることが、日本語の「僕は君を愛してる」は音符がたくさん必要なので、一言一句無駄にしないようにしています。五木さんも、「愛の水中花」とか、歌謡曲の詞をたくさん書かれていますよね。
五木──お恥ずかしい(笑)。音楽の専門家の藤井さんにいわれると、どうも。僕は歌謡曲の前に、当時まだ珍しかったCМソングの詞を書いてました。
藤井──どんな歌ですか。
五木──「日石灯油でホッカホカ」とか(笑)、「日本盛はよいお酒」とか。
藤井──ああ、覚えてます! コピーライター的なお仕事ですね。CMの歌は30秒ほどですから。
五木──ええ。掃除機の歌も石けんの歌も、いろいろ山のように書きました。ただね、プロデューサーやスポンサーがどんどん直すんですよ、断りもなく。それに耐えられなくなって、CМソングを制作していた会社からレコード会社へ移ったんです。その後は、保育童謡や歌謡曲をたくさん書きました。
藤井──すごいですね。五木さんの言葉を紡ぐ力というのは天性のものなんでしょうね。
五木──でもね、あるとき、星野哲郎さんという大先輩にいわれたんです。「五木さんの詞は1行から4行まで全部きれいな言葉だからダメだ」って。意味がわからなくて、なぜダメなんですかと尋ねたら、「曲にはサビってものがあって、4行詞だったら、3行目ぐらいがサビになる。僕なんか、その前後はできるだけ控えめに平凡な歌詞を入れる。すると、サビの部分がパッと映えて光り出すんだ」と。なるほどと思いましたね。
藤井──山場の前に平場を作ったほうが、山場になったとき盛り上がるということでしょうね。やっぱりサビには絶対印象的で、ぐっとくる言葉をのっけないとダメですからね。出だしも大切ですけど。
五木──出だしが大切なのは小説も同じですね。なんといっても、そこで読者の心をパッとつかんでしまわなきゃならない。僕が歌はいいなと思うのは、小説を読むより歌を聞くほうが「幸福感が強い」という点なんですよ。
藤井──言葉がメロディにのってるというところが強いんでしょうね。繰り返し聞いてくれるということもあります。あと、歌が得なところは短さですよね。映画は2時間、小説は1冊、ポップスは3、4分ですから。
五木──今、ツアーで全国を回ってられるそうですが、何十か所も回っていて、嫌になることはありませんか。
藤井──そうですね、ライブは肉体を使うのでスポーツみたいな爽快感がありますし、なにより行く先々でみんなが喜んでくれるので、嫌になることはありませんね。
五木──お客さんが目の前にいるから、その反応がエネルギーのもとになるんですね。そこは作家にはない喜びですね。ライブの最後は何を歌うんですか? 「TRUE LOVE」?
藤井──毎回変わりますが、「TRUE LOVE」は必ずどこかで歌わないと怒られる(笑)。
五木──そうでしょうね。デビューした頃の悪ガキみたいな曲も(笑)歌ってますか?
藤井──「ギザギザハートの子守唄」も歌ってますよ、最近。40年以上前の歌ですね。
五木──流行歌は長く残るんですよ。流行の歌というと、すぐに消えるイメージがあるでしょう? でも、これが消えない。僕は昭和7年の生まれなんですけど、昭和初期の流行歌、全部覚えてますよ。同じ世代の人が集まると、一緒に歌ったりしてね。
藤井──「上を向いて歩こう」もみんな、そらで歌えますよね。レコードやCDは持っていなくても。口伝えで広がるのが、本当のポップスなんですよね。僕も、親父たちが酒盛りしながら歌っていた曲、今も歌えます。「月がとっても青いから」とか、僕が生まれる前にヒットした歌ですけど。
五木──それも当時の流行歌だね。藤井さんは歌を書くのと歌うのとでは、どっちが好きですか。
藤井──どちらとはいいづらいですが、詞を書くのはすごく好きですね。文字が好きで、日本語が好きですから。僕は五木さんみたいに、広辞苑が頭に入ってるわけではないですけど、一つの単語にも、いっぱい意味があるじゃないですか? そういうところが日本語は深いなと思って、好きなんです。
五木寛之(いつき・ひろゆき)1932年福岡県八女郡(現八女市)生まれ。生後まもなく日本統治下の朝鮮に渡り、終戦後の47年に引き揚げる。早稲田大学ロシア文学科中退。66年『さらばモスクワ愚連隊』で作家デビュー。同年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。代表作に『青春の門』『親鸞』など。現在『大河の一滴 最終章』を執筆中。93歳にして好奇心旺盛、意気軒昂。小誌「こころのレシピ」ほか新聞や雑誌に8本の連載を持つ。
藤井フミヤ(ふじい・ふみや)1962年福岡県久留米市生まれ。83年にチェッカーズのボーカルとしてデビューし、一世を風靡。ソロアーティストに転向した93年、自ら作詞作曲した「TRUE LOVE」が200万枚突破の大ヒット。音楽活動のかたわら、CG画などアートの世界でも才能を発揮している。現在、2度目となる47都道府県コンサートツアー『FUTATABI』を開催中(~2026年7月)。ツアー先にも本を数冊持参する読書好き。
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