カルチャー&ホビー

身近な存在にして聖地でもある富士山。その信仰の歴史をひも解きます

2025.12.19

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〔特集〕2026年開運祈願 ── 富士山から福来たる 「末広がり」の山容、日本一の高さが「繁栄」や「頂点」に通じることから、古くから“吉兆”とされてきた富士山。2026年の幕開けに際し、改めて日本の象徴であり、日本人の心の拠り所でもある霊峰富士の、霊験あらたかな力に触れることで、開運祈願をし、我が家に福を招きます。前回の記事はこちら>>

特集「富士山から福来たる」の記事一覧はこちら>>>

富士がめでたい理由──
信仰としての富士を体感する

日本の代名詞でもあり、世界に誇るランドマークの富士山。今なお、先人たちが守ってきた信仰の軌跡は各地に多く残ります。かつて正月には「初富士」といって富士山を遥拝した風習にならい全身で富士山を体感できる聖地で開運を願ってみませんか。

古(いにしえ)より続く“富士山信仰”

8世紀に成立した『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』では、寒冷で、人を寄せつけない山とされていた富士山( 福慈(ふじ)の岳)。平安時代以降、信仰の対象になった歴史をひも解きます。

平安期の噴火を鎮める修験道と浅間社

お胎内──再生


溶岩にとり囲まれた樹木が燃焼してできた「溶岩樹型」。母胎に見立てた洞内に潜ることで、新たな生命を得る「再生儀礼」と考えた。 富士山が初めて登場した正史は『続日本紀(しょくにほんぎ)』で、天応元(781)年の噴火について記されています。奈良末期から平安期には、富士山は噴火を繰り返す山へと変貌したことから、富士神への鎮魂儀式が行われるようになりました。伝統的な山岳信仰に仏教や道教などが習合した修験道の行者が、山頂を極め、噴火の火炎の中に不動明王を拝したのです。

一方で、大和朝廷も噴火が起こるたびに鎮火祈願を目的とする浅間社を造営し、浅間神(浅間大神)を祀りました。これが、現在も残る浅間神社の始まりです。

江戸の町で爆発的に信徒を増やした「富士講」

江戸時代初期まで、庶民にとって富士山はまだ遠い山の一つでした。富士山が注目されるきっかけとなったのが、行者の長谷川角行藤仏(はせがわかくぎょうとうぶつ)を開祖とする「富士講」の誕生です。仲間がお金を持ち寄り、代表者を富士参拝へ行かせる、という組織で、角行は「富士山は天地開闢(かいびゃく)のはじめにできた国土の御柱であり、万物の根源。仙元大菩薩(浅間大菩薩)という山霊が富士山に住まわれて、この菩薩を信仰すれば、天下泰平、国家安泰、家内安全を期すことができる」と教えました。

つづら折りの山道
正式な富士講の信仰施設として用いられたことがわかる、つづら折りの登山道。「合目石」が設けられているのも特徴。橋のたもとに菖蒲が植わっているエリアがあり、ここはかつて富士五湖をイメージした池になっていた。

また富士講の指導者である食行身禄(じきぎょうみろく)が吉田口から登頂を果たし、その後、理想世界である「みろくの世」の到来を願って享保18(1733)年に8合目の烏帽子岩で入定。これが契機となり、関東一円の富士講がこぞって身禄ゆかりの吉田口から富士山登拝を目指すようになっていったのです。時代が進むにつれて富士山は身近な存在、国の象徴として意識されるようになりました。

冨士塚──信仰遺跡
1789年に造築された、現存する都内最古の「千駄ヶ谷の冨士塚」。一年中登拝が可能。頂上に立つのは鳩森八幡神社の禰宜、平野英二さん。

富士講の隆盛は、富士山を模した人工の山「富士塚」の誕生へつながりました。明治5年まで、2合目より先は女人禁制だったこともあり、登拝ができない人のために富士塚を造築し、富士浅間権現(大神)を勧請して登拝と同じ御利益があるとしました。

山の麓の里宮
山裾に「社殿」と「鳥居」があるのも正式な富士塚の証。富士塚は「お富士さん」と呼ばれ、造築当初は富士講が守っていたが、解散後に鳩森八幡神社の末社になった。社務所では、浅間神社の御朱印も授与している。

また、溶岩流が大木を取り込んで固まった後、木が朽ちてできた山麓の「お胎内」という洞穴に、安産と再生を願う参拝者が潜(もぐ)るというブームも起こりました。

“母の胎内”への道
世界遺産の構成資産にもなっている「船津胎内樹型」は富士山信仰の中心的遺跡。あばら骨のような壁面に沿って内部へ進むと「母の胎内」へ行き着く。さらに進むと「父の胎内」と呼ばれる空間が。富士講信者は登拝の前日に訪れ、身を清めた。

祀られる“コノハナサクヤヒメ”
お胎内には、現在多くの浅間神社がご祭神とする富士山の女神コノハナサクヤヒメを祀る祠があり、参拝すると安産・子授けの御利益があるとされている。

富士山溶岩で作られた奥宮
東京・千駄ヶ谷の冨士塚は高さ約6メートル、直径25メートル。表面には「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩が置かれ、頂上には「奥宮」も。使用されている土石は富士講徒たちが資金を出し合って購入し、自ら運んだ。

大正の関東大震災や、昭和の東京大空襲で富士講は衰退しましたが、神社が受け継いだお胎内や富士塚は今も各地に現存します。


河口湖フィールドセンター(船津胎内樹型)
山梨県南都留郡富士河口湖町船津6603
TEL:0555(72)4331 
営業時間:9時~17時(冬期は10時〜16時)
参拝料:一般200円
休館日:月曜休館(月曜が祝日の場合は翌日)

鳩森八幡神社(千駄ヶ谷の冨士塚)
東京都渋谷区千駄ケ谷1-1-24
TEL:03(3401)1284

【参考文献】
『富士山文化 その信仰遺跡を歩く』(竹谷靱負 著・祥伝社)
『日本人は、なぜ富士山が好きか』(竹谷靱負 著・祥伝社)


(次回に続く。この特集の記事一覧はこちらから>>

この記事の掲載号

『家庭画報』2026年01月号

家庭画報 2026年01月号

撮影/本誌・西山 航 取材・文/小倉理加

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