良いお世辞 悪いお世辞
「あら、まあ、お世辞がお上手なこと」
とか、
「そんな。見えすいたお世辞はよしてよ」
などと、日常の会話のなかでも、よく使われる言葉が、この「お世辞」です。
一応、辞書を引いてみましょう。岩波書店の『広辞苑』には、こんなふうに説明されています。
〈他人に対して愛想のよいことば。人の気をそらさないうまい口ぶり。また、相手をよろこばせようとして、実際以上にほめることば。ついしょうぐち。「見えすいた── を言うな」「──抜きで上手だ」「うまいとは── 抜きで言えない」〉
などと用例がくわしく説明されています。わざわざ辞書を引くまでもない日常語ですが、さすが〈広辞苑〉は、かゆいところに手が届くような丁寧な解説ぶり。
お世辞たらたら、などと、あまりいい印象のない「お世辞」ですが、実際に私たちが世の中に生きていこうとすると、これが実に大きな影響をもたらす重要なキーワードのひとつなのですから難しい。
人は誰でもほめられたい
人はけなされた事はなかなか忘れられないもので、子供の頃に傷ついた記憶を大人になってもずっと引きずって生きる人もいる。
その反対に、なにげないひと言のほめ言葉が、その人の生涯を通じて大きな励ましとなる場合もあります。
たぶん読者の皆さんがたも、そんな記憶の一つや二つ、お持ちのことではないでしょうか。
人間というのは難しいようで、またその反面きわめて単純なものです。子供の頃に、なにげなく母親に言われた言葉を、生涯ずっと引きずっていることもあるし、親しい友人の冗談めいたひと言がトゲのように心に刺さって、どうしても抜けない場合もある。
男の子は、とくに性格や運動能力について言われたことが深く記憶に残るものだし、女性の場合は性格や外見についての言葉が深く記憶に残るという説もあります。
「この子はオヘチャですけど、頭は悪くないみたいで」
などと平気で言う母親もいますが、ルッキズムといって最近は冗談では済まされない発言でしょう。謙遜は自分のことだけにしておくのが無難というもの。
子供の頃、私が可愛がっていた犬、チルという名前でしたが、どうしたことか、あるとき反射的に私の手を嚙んだことがありました。傷は浅かったのですが、血がでて母親は大騒ぎしたものです。
そのとき私が泣かなかったことを、母親があとあとまで話題にしていたのは、ふだん私が「文句たれ」の子供だったからでしょうか。
私はその事件のあと、母が父親にこんなことを言ったことを父から聞かされました。
「あの子は最初、チルをかばって、チルが自分を嚙んだことを言わなかったのよ。弱虫のくせに義俠心(ぎきょうしん)があるのね」
ギキョウシン。そのときは何のことかよくわからなかったのですが、ずっとあとになってその意味がわかってきました。
思いやり、とか、優しさ、とかいう表現より、ヤクザ映画めいたそのひと言が、ずっと私の記憶に心の勲章のように深く刻まれて残ったのです。
人は誰でもほめられたい生きものです。人生は荒々しく、悪意にみちている。だからこそ、素直なほめ言葉に人は飢えているのでしょう。
ですから私たちは、相手の心にとどくようなほめ方をしなければならないと思うのです。
良きお世辞は難しい
たしかに見えすいたお追従(ついしょう)でも、言わないより口にしたほうがいいのかも。
悪意のない忠告を、善いことと思っている人がいます。折にふれて何くれとなく注意したり、アドバイスをしたりする。
相手のことを思いやっての忠告であっても、それが逆効果になることもあるのです。
〈良薬は口に苦し〉
とは、古くから言い伝えられてきた名言です。たしかにその通りなのですが、すでに十二分に自分で苦しんできた人に向かっていう言葉は、苦ければいいというわけではありません。
人を𠮟ったり、忠告するのは簡単です。いや、簡単ではないでしょうが、本当に役に立つ苦言というのは、なかなか難しいもの。
そしてまた人をほめるという事も、それ以上に難しいことですが、それでも軽々しい批判、忠告よりはましではないでしょうか。
最近のメディアを見ていると、批判は上手ですが、賞讃とか評価という面で大人げない感じがしてなりません。
お世辞と苦言のどちらかを選ばなければならない局面に立つなら、私は本当の意味での良きお世辞のほうを選ぶでしょう。なぜかといえば、そのほうがはるかに難しいことだから。
軽々しいお追従(ついしょう)より真実の苦言。そう思いつつも迷うのは、自分のことをふと考えてみるからかもしれません。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》最近、現金お断わりの店が増えてきました。書店でもセルフレジ。古いのれんのお蕎麦屋さんでも、携帯で注文するお店が多い。店員さんとの会話も、なくなってしまうのが淋しいような気もします。この先、人と言葉をかわす機会もどんどん失われてしまうのでしょうか。