名字の世界 姓氏研究家の森岡 浩さんが日本人の名字を紹介します。あなたの意外なルーツが分かるかも?知れば知るほど面白い、名字の世界をお届けします。
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三条(さんじょう)
「三条」という名字があります。旧字体を使用して「三條」とも書きます。こうした「~条」という名字は、古代から中世にかけての土地区画制度である条里制に因む名字です。
古代、土地に1町(ちょう、約109m)間隔で平行な直線を引き、6町ごとに一条、二条と呼びました。そして各条と直角に交わる線を同様に引いて、こちらも6町ごとに「里」といい、条と里に囲まれてできた正方形を端から一条一里、一条二里と呼んだのです。これを条里制といいます。
こうしてできた呼び名は条里制がすたれたあとも地名として残っていることが多く、「三条」も新潟県三条市など各地に残っています。しかし、最も有名な「三条」はやはり京都の三条でしょう。京都の三条は京都市の中心部を東西に貫く通りで、鴨川に架かる三条大橋は東海道五十三次の西の起点でもあります。
なお、北海道各地にある「三条」地名は明治以降につけられたもので、条里制とは関係ありません。
平安時代後期、藤原道長の叔父・公季の子孫である実行は太政大臣となり、その別邸が京都三条にあったため、三条家と号しました。
鎌倉時代になると、分家が「正親町三条」(おおぎまちさんじょう)と名乗ったため、これと区別するために転法輪三条家ともいいます。五摂家に次ぐ清華家という高い家格を誇り、閑院流といわれた一門の嫡流という名家でした。西園寺家や徳大寺家といった有名な公家も三条家の分家です。
また、武田信玄の妻(継室)も三条家の出で、三条の方と呼ばれていました。
幕末になると三条実万(さねつむ)・実美(さねとみ)父子が活躍します。
実万は内大臣となり、日米修好通商条約に反対、将軍継嗣問題では徳川慶喜の擁立を主張して安政の大獄に連座しました。子の実美も文久3年(1863年)八月一八日の政変で失脚して長州に落ちたものの、慶応3年(1867年)の王政復古で帰京し、維新後も要職を歴任して公爵となりました。
現在は北海道や東北、新潟県に多くなっています。
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森岡浩/Hiroshi Morioka姓氏研究家。1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」など多数。
墨アート製作 書家・越智まみ(
https://esprit-de-mami.com/)