今月の著者 吉本ばななさん
少し怖くて、読み終わった後には優しい気持ちになる不思議奇譚
まだまだ残暑が厳しい季節に、読んで少し背筋がヒヤリとする1冊はいかがでしょうか。2025年5月に発刊以来、「吉本ばなな版遠野物語」として話題を呼んでいる『ヨシモトオノ』。日常に開いた小さな裂け目を覗くような短編が収録されています。書籍の帯の紹介文には、「これは『不思議と言えば不思議で、そうでもないと思えばそれっきり忘れてしまう』小さなエピソードを集めた」と記されています。
この1冊が誕生した背景を、吉本さんは「還暦を迎えて、そろそろもう好きなことをやってもよい頃かなと思い、大好きなホラーを自分の世界観で書いてみることにしました」と語ります。
本書に収められた物語は13編。note(オンラインで文章などを投稿できるサービス)「よしばな書くもん」で発表した作品「炎」を皮切りに、少しずつ書きため、雑誌に寄稿した4編に、書籍化のために書き下ろした8編が加えられています。どれもフィクションとは思えないほど、リアリティを感じる物語ばかりです。
「それは、自分や周囲の体験談を織り交ぜて書いているからだと思います。差し障りがないように、人物を変え、エピソードを組み合わせたりと、わからないようにはしていますけれど」と吉本さん。その中で1編だけ、正真正銘の吉本さんの実話があります。「光」という作品で、「この1編で本の統一感が少し損なわれる、と思いつつも書かないわけにはいかない」と冒頭に綴られ、思わず引き込まれてしまう印象深い物語です。
「似たトーンの話が多かったので、差別化するのが結構大変でした。1冊を通して、凹凸を出すために物語の順番も考えました。『光』は、雑誌の袋綴じのイメージで、本の中間ぐらいに刺激を加えたほうが面白いと考えて入れました」
「光」は、知人の死を通して体験した不思議な話。ほかの作品にもさまざまな“死”が登場しますが、怖いというよりは、読後、どこかに救いを感じます。
「幼い頃から、わりと生き物や人の死を多く目にしてきたので、“死”をテーマにした作品は今までも何度も取り組んできました。でも、嫌な気持ちにさせないことは心がけています。数ある書籍から選んで、手に取ってくださった読者のためにも、何かしら救いがあってほしいと思っています」
この“救いのある物語”は、吉本さんが作品作りの際に込めているある思いがあるからです。
「還暦を過ぎ、もう人生には限りがあるので、裾野を広げている場合ではない。時間がないからこそ、いろいろな人に読んでもらいたいとは思っていないんです。本当に私の物語を必要としてくれる1人に、たとえ1部だけであっても刷って読んでもらえたらという気持ちになっています。積極的に、傷ついた人を癒やすということを思っているわけではありませんが、こういう願いが届いて、結果として1人でも救えて、気持ちを軽くできたら意味があるなという感じでしょうか。文章には、そういう力があると思っています。この年齢になって、もともと目指していたスタンスに戻ったともいえるかもしれません」
吉本ばなな(よしもと・ばなな)1964年東京生まれ。小説家。1987年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著作は30か国以上で翻訳出版され国内外での受賞も多数。近著に『ヨシモトオノ』。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
『ヨシモトオノ』
吉本ばなな 著
文藝春秋 1760円
民俗学者・柳田國男が地方の不思議な伝承を集めた『遠野物語』。その不朽の名作のように、吉本ばななさんの周辺で起こったエピソードや聞いた話を組み合わせて新たな物語とした怪談13編が収められている。「13編のうち、どの物語が一番印象的だったかを聞くと、その人がどのような人物かがわかります」と吉本さんは話す。