名字の世界 姓氏研究家の森岡 浩さんが日本人の名字を紹介します。あなたの意外なルーツが分かるかも?知れば知るほど面白い、名字の世界をお届けします。
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古郡(ふるこおり)
「古郡」と書いて「ふるこおり」と読みます。
平成の大合併で町や村は合併して市になったり、近隣の市に編入されたりして激減しました。その結果、町や村が属していた「郡」も大きく減って、今ではすっかり少なくなりました。
しかし、明治22年に市町村制による「市」が誕生するまでは、日本のほとんどの地域は「郡」に属しており「郡」は重要な行政単位だったのです。
「郡」の制度は古代からあり、古くは「評」と書いて「こおり」と読みました。奈良時代頃から次第に「郡」という漢字をあてるようになりました。
この郡の役所を郡衙(ぐんが)といい、また郡家と書いて「ぐうけ」「こおげ」などとも読むようになります。そして郡衙には朝廷から派遣された郡司がおり、その郡を管轄していたのです。
しかし、平安時代後期になると国司の力が増大し、郡衙は衰退していきました。こうして衰退した郡衙のあった場所が「古郡」です。従って、「古郡」という地名は各地にありました。
名字のルーツとして有名な「古郡」は、武蔵国那珂郡古郡(現在の埼玉県児玉郡美里町古郡)と甲斐国都留郡古郡(現在の山梨県上野原市)の2か所です。
平安時代、関東地方西部に武蔵七党という複数の武士団が広がっていました(七党ですが8つ以上あります)。美里町の古郡には丹党と猪俣党の一族が住んでそれぞれ古郡氏を名乗り、上野原市の古郡には横山党の一族が住んで、古郡氏を名乗りました。
このうち横山党の古郡氏は、鎌倉時代初期の和田合戦で和田氏に味方したことから滅ぼされ、一族は駿河国富士郡(現在の静岡県)に逃れたと伝えます。
そして戦国時代には今川氏に仕え、江戸時代は富士郡の代官となりました。
江戸時代前期、代官古郡家は重高・重政・重年の3代にわたって富士川を改修、逆L字型の堤防を築いて「加島5000石」といわれる新田を開発しました。この工事は難航を極め、もっとも崩れやすい富士市松岡には人柱がたてられたという伝説もあり、その場所は現在護所神社となっています。
現在は関東西部から静岡県にかけて多く、とくに静岡県富士市に集中している他、埼玉県美里町の隣の深谷市などに多くなっています。
森岡浩/Hiroshi Morioka姓氏研究家。1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」など多数。
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