小説を読むと、戦後の長崎の町の風景や人々の生活、世相や人々の価値観などが細部にわたって描写されているため、イシグロさんが幼い頃の長崎の記憶を創作という形でとどめようとしたことがわかる。そもそも書く動機が長崎での日々を忘れたくないためだったともいう。しかし作品は歴史書でも公文書でもなく、作家の眼を通して見た戦後の日常の影なのだ。
「この映画が戦後80年という節目に公開されることは意義のあることだと思います。重要なのは、このような80年もの長きにわたる平和の時代を生きているのは普通のことではない、ということです。そのことを忘れてはいけません。日本もヨーロッパもアメリカも大きな目で見れば平和が続いている。これを必ず維持しなければならない。
そして、この80年もの平和を支えてきたのが、国連をはじめ国際通貨基金や世界銀行などの国際機関であるということ、同時に国と国とを繫ぐこれらの機関の存在が今危うい状況にあるということを私たち全員が理解しなければなりません。
戦後に生まれた私の世代、読者の皆さんの世代は日々このことを考え続けなければならず、政治家にものをいっていかなければならない。これは私から読者へのメッセージです」
イシグロさんによれば、『遠い山なみの光』は実は過去に3回映画化の話があったという。そのうちの1回は日本の映画監督の故・吉田喜重(よししげ)(1933年生まれ。日本ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍)からだった。
「吉田喜重さんは戦争の時代に生きた人ですから、もし彼が『遠い山なみの光』を撮っていたらおそらく違う映画になったはずです。石川 慶さんの作品へのアプローチは、企画書を見た段階から違うと感じました。同じ日本人として長崎に敬意を払いながらこの物語を今の若い世代が関心を持てるような形にしてくれたと思っています。
例えば小説では佐知子が戦争の嫌な思い出を説明するシーンでフラッシュバック(過去のシーンを挿入する技法)を用いているのですが、慶さんはフラッシュバックは使わず、二階堂さんの長いモノローグだけで過去のことを伝えている。しかも役者の顔さえ見えない。彼女の背中とタバコの煙、声だけでシーンを成立させています。
つまりこの映画は過去ばかり見ているわけではない。私たちが今生きている世界、今後の世界を前向きにとらえています。若い人たちのための映画を彼が作ってくれて、しかも素晴らしく優秀な若い世代の役者たちがそれを演じてくれたことを嬉しく思います」
映画『遠い山なみの光』
戦後1950 年代の長崎、80年代のイギリスを舞台に繰り広げられる、悦子と佐知子という二人の女性の物語。ミステリー的な要素を孕(はら)みながら、心の中に入り込む戦争の影を希望とともに描いている。日本、イギリス、ポーランドの共同製作。
2025年9月5日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか 全国ロードショー
配給/ギャガ
監督・脚本・編集/石川 慶
原作/カズオ・イシグロ小野寺 健 訳『遠い山なみの光』(ハヤカワ文庫)
出演/広瀬すず、二階堂ふみ、吉田 羊、カミラ・アイコ、柴田理恵、渡辺大知、鈴木碧桜、松下洸平、三浦友和
https://gaga.ne.jp/yamanami/
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※次回は、ガザを支援するオークションを主宰した坂本美雨さんのインタビューをお届けします。
取材・構成・文/三宅 暁