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カズオ・イシグロさん「80年の平和を普通のことと思ってはいけない。常に世界の動向を見つめて」【戦後80年インタビュー特集】

2025.09.09

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大人たちがしばしば語った“ゲンシバクダン”。イギリスでその意味を知る

イシグロさんの幼少時の長崎での経験が、数々のカズオ・イシグロ作品に大きな影響をもたらしていることはよく知られているが、自身は戦後世代であり、戦争にまつわる記憶は、長崎で折りに触れ耳にしてきた戦争体験者の言葉の端々に基づくものしかない。

「長崎に住んでいた頃の記憶の一つは、“ゲンシバクダン”という言葉を大人たちが繰り返し使っていたことです。でも、4歳の私にはその言葉が何を意味しているのかが全くわかりませんでした。誰かが自分の親戚や友人の話をすると、たいてい最後に『それで、彼女はどこで亡くなったの?』と聞かれてその話が終わることや、祖父が『昔そこに橋があったけれど、子どもたちと一緒に消えてしまった』と私に語ったこと、そんなことを覚えています」

“ゲンシバクダン”が何か、その疑問が解けたのはイシグロさんがイギリスに渡ってから、8歳か9歳のときだったという。イシグロ少年が学校にあった百科事典で“ゲンシバクダン”を調べると、長崎と広島のことが出ていた。きのこ雲の写真も載っていた。自分の出身地である長崎が遠い異国のイギリスの百科事典に載るくらい有名な町だということに奇妙なプライドを感じたという。そしてそのときに初めて原子爆弾が何かを理解する。


『遠い山なみの光』は被爆した母親から聞いた話に影響を受けている。

「20代半ばで小説を書き始めた頃、それまで戦争体験を話さなかった母が『そろそろ私の経験を話しておきたい』と、戦争時のことを話してくれました。原爆が落とされた日のこと、その後のこと。母の話をできるかぎり正確に物語に書こうとしましたが、『遠い山なみの光』では意図的に母の話は反映しないことにしました。母の個人的な思いを尊重したかったからです。だから悦子は私の母親ではありません。けれど物語の背景には母から聞いた話の影響があると思います」

過去ばかり見てはいけない。今生きているこの世界を前向きにとらえること

戦後の長崎に暮らす悦子(広瀬すず)。

戦後の長崎に暮らす悦子(広瀬すず)。

小説を読むと、戦後の長崎の町の風景や人々の生活、世相や人々の価値観などが細部にわたって描写されているため、イシグロさんが幼い頃の長崎の記憶を創作という形でとどめようとしたことがわかる。そもそも書く動機が長崎での日々を忘れたくないためだったともいう。しかし作品は歴史書でも公文書でもなく、作家の眼を通して見た戦後の日常の影なのだ。

イギリスで暮らす80 年代の悦子(吉田 羊)。

イギリスで暮らす1980年代の悦子(吉田 羊)。

平和を支えてきた国際機関の今の状況から眼を離してはいけない

「この映画が戦後80年という節目に公開されることは意義のあることだと思います。重要なのは、このような80年もの長きにわたる平和の時代を生きているのは普通のことではない、ということです。そのことを忘れてはいけません。日本もヨーロッパもアメリカも大きな目で見れば平和が続いている。これを必ず維持しなければならない。

そして、この80年もの平和を支えてきたのが、国連をはじめ国際通貨基金や世界銀行などの国際機関であるということ、同時に国と国とを繫ぐこれらの機関の存在が今危うい状況にあるということを私たち全員が理解しなければなりません。

戦後に生まれた私の世代、読者の皆さんの世代は日々このことを考え続けなければならず、政治家にものをいっていかなければならない。これは私から読者へのメッセージです」

イシグロさんによれば、『遠い山なみの光』は実は過去に3回映画化の話があったという。そのうちの1回は日本の映画監督の故・吉田喜重(よししげ)(1933年生まれ。日本ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍)からだった。

「吉田喜重さんは戦争の時代に生きた人ですから、もし彼が『遠い山なみの光』を撮っていたらおそらく違う映画になったはずです。石川 慶さんの作品へのアプローチは、企画書を見た段階から違うと感じました。同じ日本人として長崎に敬意を払いながらこの物語を今の若い世代が関心を持てるような形にしてくれたと思っています。

例えば小説では佐知子が戦争の嫌な思い出を説明するシーンでフラッシュバック(過去のシーンを挿入する技法)を用いているのですが、慶さんはフラッシュバックは使わず、二階堂さんの長いモノローグだけで過去のことを伝えている。しかも役者の顔さえ見えない。彼女の背中とタバコの煙、声だけでシーンを成立させています。

つまりこの映画は過去ばかり見ているわけではない。私たちが今生きている世界、今後の世界を前向きにとらえています。若い人たちのための映画を彼が作ってくれて、しかも素晴らしく優秀な若い世代の役者たちがそれを演じてくれたことを嬉しく思います」

悦子と佐知子、二人の関係性が物語の重要な鍵となる。

悦子と佐知子、二人の関係性が物語の重要な鍵となる。

若い世代に戦争を語り継ぐことは、悲惨な歴史を語ることばかりではない。戦争は私たちの大切なものすべてを奪い取っていく。その経験を経てなお未来に希望を見出し、若い世代を巻き込んでメッセージを発していくことの重要性をイシグロさんは指摘する。

人間は過去の大きな過ちを繰り返すほど愚かな存在ではないはずだと考える善意ある人々が、希望を捨てることなく世界の平和を維持するために日々努力を重ねていることを理解し、尊重する。それが取りも直さず、戦争の記憶を風化させないための一つのあり方でもあるのだ。

映画『遠い山なみの光』
戦後1950 年代の長崎、80年代のイギリスを舞台に繰り広げられる、悦子と佐知子という二人の女性の物語。ミステリー的な要素を孕(はら)みながら、心の中に入り込む戦争の影を希望とともに描いている。日本、イギリス、ポーランドの共同製作。


2025年9月5日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか 全国ロードショー
配給/ギャガ
監督・脚本・編集/石川 慶
原作/カズオ・イシグロ小野寺 健 訳『遠い山なみの光』(ハヤカワ文庫)
出演/広瀬すず、二階堂ふみ、吉田 羊、カミラ・アイコ、柴田理恵、渡辺大知、鈴木碧桜、松下洸平、三浦友和
https://gaga.ne.jp/yamanami/
©2025 A Pale View of Hills Film Partners

※次回は、ガザを支援するオークションを主宰した坂本美雨さんのインタビューをお届けします。

この記事の掲載号

『家庭画報』2025年09月号

家庭画報 2025年09月号

取材・構成・文/三宅 暁 

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