「不倫」をめぐる議論
毎朝、その日の新聞、何種類かに目を通します。
記事はともかく、週刊誌の広告のほうについ目がいってしまう。その号の記事の内容が細大もらさず紹介されているので、もう買わなくてもいいくらいの親切さです。
毎号、定番となっているのが芸能人の不倫のニュース。ろくに名前も知らないような若いタレントさんのゴシップが、かかさず記事になっている。
「よく飽きもせずに不倫問題ばかりやりますね」
と、たまたま会った週刊誌のデスクに言ったところ、
「だって、読者の引きがつよいからね」
と、軽くあしらわれてしまいました。
べつに政権与党の裏金問題ばかりやれと言ってるわけではありませんが、なるほど、いまの読者は他人の不倫問題にそれほど関心があるのか、と、あらためて時代のズレを感じさせられたものでした。
ご婦人の本音
先日、地方新聞社の主催する〈婦人生活問題研究会〉とやらの講師に呼ばれて、話をしに出かけたのですが、会の終ったあとの関係者のお疲れパーティーでも、この問題で大いに盛りあがったものでした。
「先生、不倫と不貞とは、どうちがうんですか」
と、いきなりきかれて、う~ん、と考えこんでしまったのです。 その間に、皆さん勝手に自説を披露して一座、騒然。
講義のあとに質問を求めても、あまり発言がなかったのに、アフターの席では議論百出で、驚きました。
「それよりも、不倫とか言われる行動そのものについては、皆さん、どう思います?」
と、おたずねすると、
「いいんじゃないですか。不倫、とか言葉がイヤだけど」
肩をすくめて首を振るマダムもいらっしゃいましたが、大勢は不倫容認の気配でした。
「いい悪いはともかく、なかなか私たち、そんな機会がないのよね」
と、本音をもらすかたもいて、一同大笑い。
「この町は、人の口がうるさいから」
「噂にならなきゃ、やる?」
「チャンスを作ってよ」
と、冗談でごまかすかたの眼が、キラキラ光っていたのが印象的でした。
「彼氏はともかく、カフェで世間話をするくらいの男友達は欲しいよね」
「そんなの、つまんなーい」
で、また大笑い。
「バレたときのリスクがね」
などと、首をかしげる現実派も。
「では皆さん、ご主人が、いや、夫が、いわゆる風俗の店にいったりするのは、不倫だと思いますか」
と、私が不適切な発言をすると、皆さん、 顔を見合わせて、しんとなる。
ややあって年かさのお一人が首をかしげて、
「そんなところ、いくかしら」
ややあって、若いマダムが、
「いくんだって。主人が言ってたよ」
「人によるでしょ」
「いく人が沢山いるから、ああいうお店が成り立つんじゃない。ほら、あのデパートの裏通りなんか、軒並(のきな)みだもん」
「それも不倫かしら」
「当り前でしょ」
「それはちょっと違うと思うな。人によるわよ」
などと、一座騒然。
思わぬところへ話題がいってしまって、私も立往生するしかありません。
「不倫ってのは、もっとロマンチックなのよね。たとえば──」
と、一人が話題を転換してくれたので、ほっとした一席でした。
男性優位の感情の根深さ
「不倫は文化だ」
と、発言して問題になったタレントさんがいましたが、フランス文学者の先生がたに言わせると、それも一理ある意見だという見方もあるそうです。
〈道ならぬ恋〉を美しく描くのが真の戯作者(げさくしゃ)や芝居台本作者の仕事でしたが、古典のみならず、現代文学のなかでも不倫は大きな主題として扱われてきました。
私は不倫を擁護する立場ではありませんが、人はわかっていても正しい生き方だけを選べる生きものではない。それぞれが自分の心にそった生き方を選べばいいと思うのです。
問題は、風俗産業の現実に反映しているような男女間の性差です。 私自身、つねに戸惑うことが多いのですが、今なお昭和前期の男性観、女性観の根強さに、みずから忸怩(じくじ)たる思いを嚙みしめることが多い。
男性優位の感情の根深さは、 百年、二百年で変えられるものではないような気もします。たとえば〈俺(おれ)〉という言葉にさえ、 何か説明のつかない深い差別感がひそんでいるように思えて、目下、立往生といったところなのです。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》春が過ぎても、まだ厚手のツイードのジャケットを着ています。最近、どのお店でも早目に冷房を入れるので、エアコンの風が苦手な私としては、体を冷やさないように必死で防衛しなければならない。大変です。