人に好かれるひと
Qくんは或る出版社の若い編集者です。
仕事のほうは、それほど才能があるとは思えないのですが、執筆者たちにやたら人気がある。
「ちょっとお時間を拝借したいのですが」
と、Qくんから電話がかかってくると、たいていの作家が少々無理をしてでもOKしてしまうらしい。Qくんの人徳というか、特技といってもいいかもしれません。
それには理由があります。べつに豪華な手土産を持参するとか、とびきり秀逸な企画を提案するとか、そういった仕事上の問題ではありません。
その証拠に、私はこれまでほとんど彼と組んで仕事をしたことがないのです。少部数のエッセイ集を一冊出しただけ。
それでも彼と雑談をする機会は、できるだけ確保しようとしているのは不思議です。
“同情なし”のスガスガしさ
Qくんのどこがそんなに魅力的なのか。
悪いけど、ルックスではありません。仕事上の専門知識の豊富さでもない。しいて言えば、彼の対人関係におけるおおらかさといった点が心地よいのです。
Qくんの前に、同じ社の編集者で、すごく仕事のできる女性がいました。彼女が担当してくれているあいだに、三冊ほど新しい本をその社から出したくらいです。
しかし、私は必要最小限度の打ち合わせで仕事をすすめるようにしていました。
打ち合わせも要点だけをお願いして、短時間で切りあげることが多かったように思います。
要するに私は彼女が苦手だったのでしょう。
知識も豊富で経験も十分。気がつくことに関しては驚くほどの神経のこまやかさでした。
そう、私は彼女の“気づき過ぎ”が息苦しかったのかもしれません。
顔を合わせると、最初に、眉をひそめるようにして小声で囁きます。
「大丈夫ですか? 少しお疲れのようにお見うけしますが。昨夜、徹夜でお仕事なさったんじゃありません?」
いたわるように優しく眉をひそめたりする。
「失礼」
と言いながら私の上衣の襟をハンカチでぬぐいます。朝食のときに食べものをこぼした跡がついていたのかもしれません。
「その後、お膝の具合はいかがですか」
私は数年前から「変形性膝関節症」とやらで、杖をついて歩いているのです。
「いや、まあ、なんとか」
「イツキさんより三つも若い○○先生は、同じ膝の不具合で、独りでは靴下もはけないとこぼしていらっしゃいました」
「まあ、靴下ぐらいはなんとかはけますけど」
「でも、最近はまたコロナがぶり返しているみたいですから、お気をつけになったほうが。お歳をめされたかたが多く感染なさっていらっしゃるようですので」
「ハイ、ハイ」
「先日、お亡くなりになられたあの先生は、同期でいらしたんですよね」
「うん」
「同世代のお仲間が逝かれるのは、やはり、おさびしいでしょう」
「うん」
と、いった具合で向うはよく喋るが、私のほうは自然と無口になる。しばらく仕事の話をして、
「では、わたくしはこれで失礼させて頂きます。どうぞお大事に」
と、まるで今生の別れのような目付きで見つめられると、こちらも思わず無言でうなずくのみ。
そんなとき、ふとQくんに会いたい、と思ってしまうのが不思議です。
先日も、
「地震がきたら、もう逃げられないね。心配だよ」
と言ったら、笑って、「そんな事を言う人に限って、杖なんかつかずに駆けだすみたいですよ。心配ないです」
と、笑われたばかりなのだ。先日は、
「このところ結膜炎になってね。目薬は何がいいだろう」
と、相談したら、
「お年寄りはみんな結膜炎になるんです。心配ないですよ。ほら、うんと年取った犬を見てごらんなさい。目が真赤で涙ぐんでるでしょう」
「きみは人をイヌなんかと一緒にするのか」
と、つめよると
「それ、イヌなんかというのはまずいです。アニハラ、アニマルハラスメント、とか言われるかも」
少しの同情もないところが、かえってスガスガしいのです。
子供と老人は違う
気づかい、というのは大事なことです。しかし、気づかわれる本人にしてみれば、あまりこまやかな心づかいは重荷である場合もないわけではありません。
いま現在、元気な若い人も、いずれ年を重ねて高齢者となるのです。そうでなくても病気をする機会も少なくない。要するに社会的弱者となるのは、いたしかたないことです。
そういう人々に接するとき、最もいけないことは相手を幼児あつかいすることでしょう。子供と老人とはまったく違うのですから。
高齢者にとって最も心が痛むのは、幼児あつかいされる時です。年寄りと子供とはちがう。そのことだけは、この歳になってはじめてわかりました。もう、おそいのですが。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》最近、昭和百年とあって、「昭和」に関するインタビューや、対談や講演の依頼がやたらと多いのですが、複雑な気持ちです。昭和歌謡だけではない昭和を、どう語るか。その辺がむずかしいところです。目下、思案中。