カルチャー&ホビー

五木寛之さんが語る【こころのレシピ】葉書にマルでもいいから

2025.06.09

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撮影/有乃衣里彩

葉書にマルでもいいから

自分のことをあまり書いたことがありません。

ある新聞の呼びものコラムに、『私の履歴書』というのがあります。知名人が自分の歩んできた道を率直に語る文章ですが、とても面白い。時には感動して胸が熱くなったりすることもあります。

自分を語る難しさ

最近のものでは、漫画家の一条ゆかりさんのアーチストとしての回顧録を楽しんで読みました。

画家と作家と、仕事の分野はちがっても、創作という世界の苦労や歓びは一緒だな、と、つくづく思ったものでした。


自分のことを飾らずに率直に語ることは、とても難しいことです。ましてクリエーターとして生きている人間にとっては、至難の業といっていい。苦労ばなしと自慢ばなしは、紙一重といった感じがあります。そこを時にはユーモアをまじえながら、淡々と語ることは、楽な仕事ではありません。

何度かその欄の執筆をすすめられたのですが、なかなか自信がなくて今日までのびのびになってしまいました。

小説家というのは、率直に自分の遍歴を語ることが難しい立場です。ですから多くの文学者たちは自分が作りあげた物語に託して自分の履歴というか、遍歴を語ることが多い。

かつては「私小説」などといって、それが文学の王道であるかのように扱われた時代もありました。

しかし、現代の作家は、誰もが自分の思っている過去が、真実の自分の履歴とはいえないことに気づいています。

そこに自分の履歴を語ることの難しさがあるのです。自分が信じている過去が、本当に真実の過去なのか、疑いだしたらきりがありません。外面的な経歴だけを語ったところで、それは世間的な話題にしかならないと感じるのです。

センチメンタルな言葉に「こころの旅路」という表現がありますね。人は誰でも複雑な「こころの履歴書」を持っている。それを語ることはとても難しいことではないでしょうか。

礼状を書けない“病気”?

私は若い頃、〈苦学生〉という古風な幻想を抱いて九州から上京しました。働きながら大学に通うという夢は、すぐに破れ、アルバイトに追われて授業に出られぬ日が続きました。あげくのはてに、製薬会社で自分の血を売るところまで追いつめられたのです。

滞納した授業料をなんとかしないと、退学するしかありません。

どうにもならなくなった私は、ついに郷里の父親に借金を申し入れました。父親はその時、学校の教師をして引揚後の家族を養っていたのですが、結核で療養中でした。

無理を承知の依頼でした。高校卒業後は私が地元で就職することを願っていた父親の期待を裏切って、苦学生として自力で大学へ行くことを宣言した私にとっては、言うにいえない恥ずかしい申込みだったのです。

やがて父親から後期の授業料ぴったりの額の金が届きました。後で知ったのですが、その時父親は自分の恩給証書を担保に借金をして送ってくれたそうです。

辛うじてピンチを救われた私の、最大の後悔は、その送金に対してすぐに礼状を書かなかったことでした。

私は今でもそうですが、手紙とか葉書を書くことが死ぬよりも苦手なのです。これまでも、よくそんなことで世間を渡ってきたなと思えるような不義理を重ねてきました。先輩作家から葉書を贈られて、礼状ひとつ書かずにこの世界で生きてこられたことは、奇蹟といっていいでしょう。どれだけ人を不快にしたかを考えると、生きた心地がしません。これは不義理というより、私は〈病気〉だと思っています。

原稿を書くことは何ともないのに、大事な返信すらできない自分が、恥ずかしく、人前に出られない罪悪感に身がすくむばかりです。

文壇の大先輩から見知らぬ読者まで、心のこもったお便りが夢にまででてきて、心を責め立てます。

しかし、そんな時に必ず私がつぶやくのは、「あの時でさえ手紙を書かなかった自分ではないか。どうせ地獄に落ちるのは必定の身なのだ」

と、いう独白でした。

あの時でさえ、というのは、私が父親から授業料を送ってもらった大学一年の秋です。

私は父親が借金をして送金してくれたことに対して、礼状ひとつ出さなかった。

今月は書こう、今夜は書こうと自分を責めながら、ついに私は礼状を書かぬままに日が過ぎてしまったのでした。

二カ月ほどたった或る日、父親からの一通の葉書が届きました。〈金は届いたか。届いたなら、葉書に「○」とだけ書けばいいから、返事をよこせ〉

と、ありました。

私は今でもその葉書のことを夢に見ることがあります。
五木寛之(いつき・ひろゆき)

五木寛之(いつき・ひろゆき)

《今月の近況》
今でも手紙やお礼状を書くのが死ぬほど辛いのです。昔は自分を責めたこともありましたが、今はもう諦めました。これは先天性の病気だと納得したのです。どこか良い病院がありましたら教えてください。

この記事の掲載号

『家庭画報』2025年06月号

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