独りは孤独ではない
「どんなときに孤独を感じる?」
と、きけば、おおよその人が、
「ひとりのとき」
と、答えるのではないかと思います。
たしかに〈孤独〉という字からしても、〈孤〉という字は、〈両親をなくした子〉とか、〈ひとりぼっち〉などと解説されている。〈独〉も同じようなものです。〈ただ一人〉とか〈ひとりぼっち〉とか、似たようなものでしょう。
〈孤〉と〈独〉があわさって、いっそう語感を強調しているのです。そのために〈孤独〉といえば〈ひとりぼっち〉という印象がつよいのではないでしょうか。
孤立と孤独
最近、小学生の自殺が話題になっています。
いわゆる識者、評論家たちの意見をきけば、孤独感がその動機の底にあるという。
遊び盛りの小学生の〈孤独〉とは、いったいどのようなものだろうと、あらためて考えました。
子供の自殺ときけば、生活苦とか、いじめとかがすぐに頭に浮かびます。仲間はずれにされることの孤立感は、子供だけにとどまらず大人にとっても大きな不安です。
私たちはみんなから仲間はずれにされたくない。たとえそれがうわべだけの友情であっても、孤立するのはなんとしてでも避けたいと思う。
そのために服装に気をつかい、それぞれの属するグループのマナーや言葉づかいを大事にする。お洒落やファッションというのも、一種の身分証明書のようなものかもしれません。
とかく人は群れたがる、というのも、そういうことではないでしょうか。共通の言葉づかいをし、共通のマナーを守る。
昔、平安時代には、そんな暗黙のルールに反して、ユニークな生き方をする人物を〈埒(らち)を外れた人〉と称しました。〈埒外の人〉などとも言います。
〈埒〉とは、馬を飼っておく馬場の周囲の柵(さく)を言います。転じて世間の秩序、良識などをさすようになりました。それを飛びだして勝手気ままに生きることを〈埒もない〉と言う。
いまでも時代劇の奥方などが、
「埒もない!」
と、目下の者を叱ったりしますね。まぁ、常識はずれの人、という意味でしょうか。
一説によると、平安期の宗教家、親鸞の父親は、下級貴族だったくせに楽器、音曲を好み、また当時のはやりの歌に熱中したんだそうです。そんなこともあって、出世ができず、不遇な生涯を送ったと伝えられています。
彼は〈埒外の人〉として上流社会からうとんじられたのでした。
でも、彼が孤立はしたものの、はたして孤独であったかどうかはわかりません。私は勝手に考えるのですが、固定した身分社会の〈埒=柵〉から外れて、孤立して好きなように生きることは、必ずしも〈孤独〉を意味しないのではないでしょうか。都の外れに住み、好きな謡や音曲を楽しみながら生きるなかで、彼は彼なりに満足した人生を送っていたのではないかと思うのです。彼は決して孤独ではなかったとも感じる。
つまり、独りで孤立して生きることは、必ずしも孤独ではないような気もするのです。孤立と孤独とはちがうのではないか。
群衆のなかの孤独
私が若い頃に書いた「インディアン・サマー」という歌詞のなかに、こんな文句があったことを思いだしました。
ひとりでいる時の
淋しさよりも
ふたりでいる時の
孤独の方が苦しい
その頃はやったボサノヴァの曲が元で、当時はジャズ歌手などにもうたわれたものでした。
私がここで言いたいことは、独りでいることは、必ずしも〈孤独〉ではないということです。
大勢の仲間たちと一緒にいるときに、むしろ人は孤独を感じることがあるのではないでしょうか。
みんなと一緒にいながら、本当は自分はこの人たちとはちがう、同じではない、と感じる。そのことこそ、本当の孤独というものです。
「群衆のなかの孤独」
そういうことを言った外国の作家がいました。ジョージ・オーウェルというのが、その作家の名前です。彼は1936年のスペイン内戦に参加して敗れます。
独りでいるときにではなく、志(こころざし)を共にする同志と共に戦ったなかで、彼は真の孤独を感じたのでした。
みんなと一緒にいながら、じつは自分はちがう、と感じるときの孤独こそ耐えがたい真の孤独かもしれません。
独りでいることは、必ずしも孤独ではないのではないか。私はそう思うのです。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》60年以上たまった本を、やっと半分ほど整理しました。あと半分、はたして片づけることができるかどうか、まったく見込みがたちません。雑な本ばかりなのでなおさらです。