
上野公園の桜並木とともにランドマークとなっている不忍池。池は蓮池、ボート池、鴨池と3つに区切られ、特に3〜4月の桜と7月の蓮の開花期には、周囲は散策を楽しむ人たちで賑わいます。蓮の開花の最盛期に、蓮池にせり出した蓮見デッキと呼ばれる周回路を行き、視界が蓮で埋め尽くされると、東京にこんな場所があることが不思議にも思えてきます。蓮も桜も江戸時代から植えられていて江戸の庶民も同じように楽しんでいたのです。
不忍池の中央には天海僧正が琵琶湖の竹生島に見立てて築いた中之島があり、そこに八角形で丹塗りの不忍池辯天堂が建っています。当初は島に舟で渡り、お参りをしていましたが、寛文年間に島と岸から埋め立てて橋で結ばれました。辯天堂はその後、昭和20(1945)年の空襲で焼け落ち、現在の建物は昭和33(1958)年に復興されたものです。ビルが周囲に建ち並ぶ不忍池界隈において、朱の辯天堂はくっきりとその姿を浮かび上がらせています。
清水観音堂は戦災による焼失を免れた数少ない堂宇の一つで、建立は寛永8(1631)年。単層入母屋造りで、辯天堂に向かって張り出した舞台はまさに小さな清水寺。歌川広重の浮世絵にも描かれた「月の松」は江戸の植木職人によって輪の形に丸く仕立てられた松で、今の月の松はそれを現代の技術で再現したものですが、観音堂から輪を覗くとそこに辯天堂が見える仕掛けです。浮世絵にも描かれるほど、ここは江戸の名所だったのです。
竹生島は近江、清水寺は山城、いずれも比叡山の山麓にあたり、天海僧正の比叡山を江戸に再現するという構想が形として目に見えてきます。しかも、辯天堂は竹生島の宝厳寺から弁財天を、清水観音堂は清水寺から平安中期の天台宗の僧・恵心僧都作の千手観音(秘仏)を勧請しているところに、天海僧正の形を求めるだけではない、庶民に届けようとするものの深みが感じとれるのです。
辯天堂では下谷仏教会が主催する流灯会(りゅうとうえ/灯籠流し)が毎年7月17日に執り行われていて、灯籠の受付所には多くの人が列をなします。
夕刻、灯籠を手にした僧侶たちが辯天堂の前に静々と集い、法要が始まると、厳かな雰囲気に。上野公園に立ち寄った多くの外国人観光客も読経(どきょう)にじっと耳を傾けています。池に流された灯籠が小さな明かりの数々を池に灯し、次々と消えていくとき、上野公園の賑わいは一瞬静まり、亡き人への祈りに包まれます。※手塚さんの「塚」は旧字体(塚にヽのある字)です。表示環境によって新字体で表示されることがあります。 撮影/鈴木一彦 取材・文・構成/三宅 暁〈編輯舎〉 取材協力/東叡山寛永寺