読書家の作家が描く“本を読まないサッカー少女”
――これまでの小説の主人公は高等遊民的な人が多かったので、本を読まないサッカー少女の亜美は、乗代さんの作品では新しいタイプかもしれません。
亜美は、本は読まないけれど、練習について自分なりに考えてアプローチできる子です。何度も旅をする自分が見ている風景のさまざまなものと結びついて、練習をくり返すなかで、亜美というそんな少女がつくられていく。自分の練習と小説ができていく過程がシンクロして、とても嬉しい体験でした。
――今回は、時期と場所が明確な作品でもあります。
こういうものはずっと書きたいと思いつつ、(小旅行をする時期が)春休みや夏休みというのは違う気がして、なかなか当てはまる状況がなかったところで、たまたまコロナ禍になって。厳しい状況と言えばそうですけど、正直、彼らの旅はさほどそれに関係なく進むし、むしろそのなかで普通に続く気持ちのほうが大事でした。それは、塞ぎ込むか開き直っていくかという世相を見ながら考えていたことです。
もう少し時期がずれていたら、また違う考え、違う小説になったはずです。実際、この小説内のような、マスクに義務感がなかった頃の感覚というのはうまく思い出せません。
――とにかくサッカーが好きで、自分に忠実に生きる亜美には美しさを感じました。
僕は長年、小さな塾で講師をしていたので、あのくらいの年の小学生と、かなり距離の近いところでたくさん話をしてきました。自分が子供だった頃を思い出しながら、良い方向に導いてやりたいと思っていたし、話していて楽しい気持ちにさせてやりたかった。
一方で、明るさや真剣さ、いろいろなものを見せてもらいました。毎回、小説には、自分が今までやってきたこと、見たものや会った人など、この世界の込められる限りを込めたいと思っているので、亜美にはいろいろなものが投影されたと思います。
自分だけの王国であり、練習場である「ブログ」
――ブログを更新するために生きてきたと書いているのを読みましたが、やはりそこがすべての始まりでしょうか。
そうですね。それは唯一、自信を持ってそうです、と言えることです。小説に限らずいろいろ書いてきたし、文学理論の実践みたいなことも大体はブログでやってきました。文学だけでない多くの言葉を探し回って参考にしたし、ブログ時代が自分の書くことの基礎体力をつくっています。
――自分が考えたことを、人と話すことはありましたか。
まったくなかったですね。
――生身の人間よりも、ずっと書物と対話をしてこられた……。
そうですね。僕は読むときよりも、書き写しを含めて書いているときに考えることが多いし、自分の関心は、その書いている時間とは何かということに向いています。読んだ本について感想を話すことは、それを書いている時間について話すことにはならないし、あまり興味も持てない。そういう機会を持とうとも思いませんでした。
自分の考えていることを初めて話したのは、野間文芸新人賞を受賞して対談の機会をいただいた保坂和志さんでした。
――胴長の手紙とか、意地が太ったとか、乗代さんの小説には、独特の比喩が登場します。
それも、書き写しのなかから学んだことだと思います。こういう書き方はしたことがないと思ったフレーズをくり返し写していくと、言葉の連なりの関係が手や頭に染みついていきます。そのように文を書くなかで蓄積した「生きた語彙」というのは、分解してパーツとして使えるようになります。その組み合わせが、比喩のかたちで現れたものでしょう。