空からたくさんたくさん降っては消えゆく雪片のイメージ
――以前、江國さんが、須賀敦子さんについて話をされたとき、須賀さんがフランスの哲学者ジャン・グルニエの旅行記『エジプトだより』から、“君より前に生きた人々の骨からなるこの大地の上をそっと通り過ぎよ。君は不用意にも何の上を歩いているのか知っているのか”という言葉を引用されていることに触れていました。『去年の雪』は、この言葉から連想されたのかなと思ったのですが……。
この小説を書くときに、そのフレーズを思い出すことはなかったけれど、ヴィヨンの詩とジャン・グルニエのその言葉は、すごく似ていると思います。須賀敦子さんのエッセイのすばらしさは、石造りゆえに、建物などがそのまま残っているヨーロッパという土地に刻まれたもの、そこに流れた時間を感じ取って、美しい文章で描いているところです。ヴィヨンの詩も、今はもういない歴史上の美女を称える詩で、最初に読んだときの印象がとても近くて。
日本は木の文化なので、ヨーロッパのように古いものは残っていないけれど、場所は変わらずそこにあり続けるし、時間も流れ続けている。それで今回は、同じ場所で平安時代、江戸時代に暮らした人と、現代に暮らす人を書いてみました。
――最初からこれほどたくさんの人が登場すると思いながら、書いていたのでしょうか。
断片でできた小説を書きたいと思っていたので、それは最初から考えていましたね。空からたくさんたくさん降っては消えてゆく雪片のイメージと、たくさんの人がそれぞれに生きている情景が重なればいいな、と。
――読みながら、芭蕉の「秋深き 隣は何を する人ぞ」という句が浮かびました。
ははは(笑)。でも、そういう話ですよね。本当に隣は何をする人ぞ、ですから。隣どころか一緒の家に住んでいても、人が何を考えているかわからないし、日々、自分自身の心に浮かんだことだって忘れてしまう。でも、物語は、忘れていることを思い出させてくれるんです。
雅人がそのバスに注意を向けたのは、停留所ではない場所に停まったからだ。祭の櫓が組まれているせいかもしれなかったが、それにしても、え、こんなところで? と思う奇妙な場所――なにしろ曲がり角を曲がっている途中、雅人のほぼ目の前――でバスは停まり、降車ドアがあいた。降りてきたのは一人だけで、古くさい野球帽をかぶった女の子だった。降りたその場で驚いたように立ちすくみ、きょろきょろあたりを見まわしている。女の子の外見は、何かが変だった。変というより間違っている、と雅人は感じ、その理由に気づいて驚いた。真冬みたいな服装なのだ。ベージュのジャンパー、紺色のスカート、グレーのタイツ。手編みらしいマフラー(色はからし色)まで巻いている。江國香織『去年の雪』より
世の中には正解がないからこそ、
自分が絶対と思うことを大事にしたい
――小学生の女の子が、バスの座面と背もたれのあいだにキャラメルの包み紙を押し込むとか、細部の描写はさりげなくもハッとするほどリアルです。
あれは子どもの頃にやったことがあるんです。最初はクッションとクッションのあいだに隠そうとしたら、スポッと手が入って、あ、空間がある、だったら包み紙だけじゃなく箱も入るな、って。今のバスや電車の座席の構造は当時と違うかもしれませんけど、書きながら、昔やったよくないことを思い出していました。
――万引き癖のある姉と、そんな姉と縁を切れという隠れアイドルおたくの夫。ふたりのことを考えながら、どちらが怖いだろうと自問する妹(妻)の言葉も残りました。
世の中ってそういう不穏さがありますよね。たとえば電車には、痴漢はしなくても大きな胸やお尻に触ってみたいと思っている人はいるかもしれないし、誰かの顔に拳をめり込ませたいと思っている人もいるかもしれない。電車のなかだけでもそうだから、世の中全体となればどうだろう、と。
とにかくこの小説では、いろいろな人を――恋がすばらしいと思っている人も、ゴミだと思っている人も、仕事が好きな人も、嫌いな人も――ひと色ではなく書きたかったんです。
――次から次へと登場する人々は、連なるときもあれば、反転するときもあって。
その辺りはバランスですね。私はいつも、世の中には正解はないと、思っているんです。でもだからこそ、恋でも仕事でも、自分が絶対これがいい、と思うことを大事にしたい。今回も、それぞれの人は自分の個人的な絶対を持っているけれど、その絶対は、人によって当然、真逆であったりするわけです。
結婚する人と離婚する人、生まれてくる人と死んでゆく人、老人と子ども、まるで反対のことを考えている人……人をどう描くかは、書きながらバランスを考えて進めていきました。
――登場人物の名前のつけ方は、何か工夫されたりしましたか。
うーん。名前って大事なので、何でもいいというわけにはいかなくて。今回はたくさん必要だったので、そこはちょっと大変でしたね。
――江國さんの小説は、いつもタイトルから惹かれるものがあります。
ありがとうございます。特に短編については、はじめにタイトルありきのものが多いですね。中身は何も決まっていないけれど、このタイトルで書こうと思っている短編は、今もいくつかあります。
長編の場合、たとえば『彼女たちの場合は』なら、若い女の子がふたりで旅をすることだけ決めて、どの街に行き、どんな人に会うかといった具体的なことは何も決めずに書き出すけれど、短編は、タイトルから話が膨らむこともあるし、もう少し決めて書いています。
――老若男女国籍を問わず、小説ではいろいろな人が主人公として描かれますが、作者はどんな立ち位置にいるのでしょうか。
私の場合、一人称で書いているときでも、主人公に自分を重ねるとか、物語に入っているということはなくて、物語を書いているときは観察している感じです。子どものときの感覚というのでしょうか。子どもって、まだ世界にちゃんと参加できていない、おミソみたいなものなので、世の中を見ているしかなかった、そのときの感覚に近いのかなと思います。
後編へ続く>>