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歌人の再読の書。服部真里子さんが立ち返る、この4冊(後編)

2019.06.18

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「ことばの世界」 “作品は、まったく何もないところから生まれるものではなく、先行する文学作品の影響をさまざまなかたちで受けながら書かれるもの”とは、多くの書き手が口にすること。作家が立ち返る場所としての大切な本、繰り返し読んでしまう再読の書を挙げてもらいます。服部真里子さんのインタビュー前編を読む>>>


演劇をやりたいという目的を持って入学したものの、摂食障害で体力がついていかず、たまたま手に取ったビラを機に、短歌の世界に入った服部さんは、今も自分は学生短歌会の延長で、歌をつくっていると思います、という。

“何を”ではなく“どのように”について、毎週、徹底的に話し合う歌会を繰り返すなかで、摂食障害の症状はいつの間にか消えていったというように、早稲田短歌会での濃密なことばのやりとりは、服部さんに少なからぬものをもたらしたようだ。


 

わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり抜けて翡翠(かわせみ)

海鳴り そして死の日の近づいた君がふたたび出会う翡翠

「愛には自己愛しかない」

 

鳥を見る旅の途中のその人は問われて「water」とだけ答えた

手のひらで舟をかたどりエヴィアンのお釣りのつめたい硬貨をもらう

「黄金と饒舌」

 

今宵あなたの夢を抜けだす羚羊(れいよう)の群れ その脚の美(は)しき偶数

「宇宙にヘッドフォンをかぶせて」

 

雪柳てのひらに散るさみしさよ十の位から一借りてくる

「潮干狩り」
『遠くの敵や硝子を』より



――短歌は苦しみを持った人を呼び寄せやすい詩形とのことですが、服部さんの歌は、ことばの意外な組み合わせ、その衝撃と飛躍がもたらすものが、柱にあるように感じます。

まさにその通りで、私以外の早稲田短歌会のメンバーの歌もそういう感じでした。どうして定型だとこういうおもしろいことができるのか、ことばの組み合わせのおもしろさを考え、研究するのが大好きな人ばかりで、直接的な形で苦しみを表現した歌を歌会に出していた人はほとんどいなかったと思います。

――いっぽうで、短歌は思いや感情を凝縮して伝える表現形式、という印象もあります。

発表された順に歌を読んでいくと、その人の人生がわかるといったつくり方の歌のほうが、多数派ではあると思います。ただ、私がつくりたいのはそういう歌ではありません。私がいた頃の早稲田短歌会は、“どのように”表現するかだけをひたすらコアに話し合っていました。その雰囲気を継承しているのが、早稲田短歌会のOB・OGが主催しているガルマン歌会です。ガルマン歌会で同席するメンバーとは、歌会やその後の飲み会でとても熱心に短歌の話をしてきたのに、ふと気づけば相手の職業などをまるで知らなかったなんてこともあるくらいで、本当にことばでだけつながっています。

――服部さんが好きな歌人というと……。

塚本邦雄、葛原妙子、早坂 類、正岡 豊など、挙げだしたらきりがないですね。早稲田短歌会では毎週金曜日に歌会、月曜日に勉強会をやっていたので、勉強会を通じて塚本邦雄をはじめ、いろいろな歌人に出会いました。ちなみに私が最初に勉強会で担当した歌人は東 直子さんです。

――誰でもそういう傾向はあると思いますが、服部さんの歌にも頻出することばがありますよね。

萌えることばは使いがちですね(笑)。

――なかでも頻出するのが、父ということばです。

無意識なんですけど……。ただ『遠くの敵や硝子を』は、父が死ぬ前後につくった歌が多いので、父について考える時間が長く、ことばが浮上する機会も増えたのかもしれません。それに加えて、私は歌にふわっとした、きれいなことばを入れがちなので、父という、それなりに年齢を重ねた、渋くて落ち着いた男性というイメージを入れると、バランスが取れるかな、と。

私にとって父はひとりなので、現実の父は反映されているでしょうけれど、たぶん現実の父と、父的なるもののあいだくらいの感じでことばを使っているのだと思います。

――あと服部さんの歌は、読み手によって受け取り方が違う、解釈の余地の広さも特徴ではないでしょうか。

短歌はつくり手と読み手の共同作業だと思っていて。

一首の短歌が、たったひとつの意味を示すことだけに奉仕していると、その歌は痩せているような気がするんです。人間が自然に話したことばを書き起こせば、散文になりますよね。5・7・5・7・7という型は、すごく不自然なものです。定型に収めるためには必ず、ことばになんらかの負荷をかけることになります。なので、解釈の余地のない事実をストレートに伝えたいのなら、余計な負荷のかからない散文のほうが適切なのではないかと思ってしまうんですね。

私の歌の解釈の余地が広いのは、解釈の余地を生み出すこの負荷こそを、私が短歌の命ととらえていることの表れかもしれません。短歌はつくるとき、ことばに負荷をかける以上、どうしてもストレートじゃないものが入ります。読み手によって受け取り方が異なる、その差は、私が歌に書かなかった部分に、それぞれの人が参加してくれることで生じるのだと思います。

たとえば“ひまわり”と書いたとき、健康的なイメージを持つ人もいれば、枯れたひまわりの不気味さを想像する人もいます。個人のイメージの蓄積によってことばの意味合いが変わる、それが歌の豊かさではないでしょうか。



 

水仙と盗聴 わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水

「塩と契約」

 

呼び水は何を呼ぶ水 なにひとつ呼ばない水のめぐるうつそみ

この世からつめたい水を逃すこと父のため桃を洗った水を

父に買う花をさがしに行く街の牙降るごとき真昼間である

「数かぎりない旗」

 

復讐を遂げていっそう輝けるわたしの幻ののどぼとけ

横なぐりの雪 ではなく雪柳くずれた後の道で会いたい

「ルカ、異邦人のための福音」

 

地下鉄のホームに風を浴びながら遠くの敵や硝子を愛す

「遠くの敵や硝子を」
『遠くの敵や硝子を』より



――以前、インタビューで“何を書けばよいか、いつもわからない状態にいる”と答えていましたね。

非常に語弊のあるいい方になってしまうのですが、特にいいたいことがあるわけではないんです。

もちろん今の政治や女性の置かれた状況について、自分の意見はかなり強く持っているほうですが、そういうことを短歌で書こうとは思っていません。きれいなもの、読んでドキドキするもの、ことばでしか表現できない世界や美しい楼閣をつくること、それが、短歌をつくる原動力になっています。

――2冊の歌集は、どちらも装幀の美しさが目を引きます。

『行け広野へと』は名久井直子さん、『遠くの敵や硝子を』の装幀は間村俊一さんです。名久井さんは錦見映理子さんの歌集の装幀をなさっていましたし、間村さんの手がけた塚本邦雄の本の装幀が大好きで。怖いもの知らずというか、身の程知らずと思いつつ(笑)、伝手(つて)を辿って装幀をお願いしました。自分の本ですけど、2つの歌集は本当に宝物だと思っています。

――短歌はネットと相性がよいという声も聞きますが、服部さんネットをどのように利用していますか。

歌会に提出する詠草を、TwitterのDMやラインで送ったりはしていますね。私にとっては、知っている人や知らない人と顔を合わせられるのが歌会の最大の魅力なので、あえてSNSで歌会をしよう、という感じではないです。

ただ、それは私が現在、人の集まりやすい東京近郊に住み、歌会に間に合う時間に退社できる職業に就いていて、子育ても介護もしていないからです。もしそうでなくなることがあれば、たくさんSNSで歌会をするようになると思います。そういえば、以前、福岡、大阪、京都、東京、仙台のメンバーで、スカイプで歌会をしたことがありました。喫茶店と違って閉まる時間がないので、いつまでも延々とやっていましたね(笑)。
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