四季それぞれに
むかし、福永光司先生というかたから教えられたのですが、古代中国では人生を四つに分けたそうです。四神思想というらしい。
人生の四つの期とは
まず第一期が〈青春〉。
なんとなく照れくさいような言葉ですが、どんな人にも青春という季節はあるものです。若く、エネルギーにみちた明かるい時代。通俗的に使われることが多いので、いささか気恥ずかしい感じの言葉ですが、いくばくかの哀感もないわけではありません。
〈二度と還らぬ春〉というわけです。
〈青春〉に続く人生のクライマックスが、〈朱夏(しゅか)〉。まっ赤に燃える夏。エネルギーが燃焼する充実した季節です。
さて、それに続く中年から初老にかけての季節が〈白秋〉。
北原白秋という詩人がいました。私の母は小学校の教師でしたが、日曜日には家の廊下のオルガンを独りで弾いては、白秋の作った歌を口ずさんでいたものでした。
年齢でいうなら四十代から六十歳ぐらいの、まだ華やかな時代。
でも、ススキのなびく高原を独りで当てもなく歩いているような感じもないではありません。
そして最後にくる季節が、〈玄冬(げんとう)〉。
〈玄〉というのは、黒い、とか、暗い、とか、そんな雰囲気ですが、福永先生の言葉では、「黒のなかに何か輝きが感じられる〈艶やかな黒〉」だそうです。
〈玄の玄〉という表現もあって、なかなか艶っぽい季節でもあるらしい。
そういうふうに並べてみますと、どの季節もなかなか悪くない感じもしないではありません。
私など〈玄の玄〉のさなかにいるわけですが、正直いって、悪くない季節だと思うこともあるのです。
春は一般的に、心が浮きたつような、楽しい季節と思われますが、必ずしもそうではない。
〽春には春の愁いあり
という歌が思い出されます。また「春愁」という言葉もあります。ぼくの好きな俳句の一つに、
〈春愁や 老医に患者のなき日あり〉
というのがあります。
「玄冬を謳歌」も悪くない
高齢に達して大きな病院を退職なさった老医が、余生を世のため人のために、と考えて小さな診療所を開き、近所の子供さんや、お年寄りのお世話をなさっている。今日はあの子はくるだろうか、そういえば年配のご婦人もそろそろおみえになるかな、などと思いつつ診療室に坐って待っているが、その日はなぜかだれもやってこない。
ひとりだけ手伝ってくれている老看護師さんが、
「今日は誰もみえないみたいですね。街には新しい大きな病院もできて大人気だそうですから、これからはこんな日も続くんじゃないでしょうかねえ」
と話しかけてくる。
「そうだねえ。こんな日が、これからずっと続くんだろうなあ」
と、窓の外を眺めれば、春の風に桜の花びらがチラリホラリと散っていく。
しんみりした平和な風景です。そこで一句。
〈春愁や 老医に患者のなき日あり〉
しみじみとした悪くない境地ではあります。
人生の四季は、それぞれに味わうべき何かがある。そして、それはなぜかしんみりした愁いをともなって感じられるものです。
〈人生は歓びである〉
と、いうのも真実ではありますが、同時にまた人生には、〈生きていくことの淋しさ〉もないわけではありません。
〈毎日がお祭り〉というわけにもいかないものです。たとえそうであったとしても、
〈祭りの後の淋しさ〉、もやってくる。
音楽とか、美術とか、文学とかいうものは、そういう淋しさをいたわってくれる捧げものかもしれない。私はときどき、ふっとそう感じることがあるのです。
最近、昭和歌謡などといって、古い昔の流行歌を懐しむ空気があります。いまさら、という気もしないではありませんが、〈がんばれ〉という歌よりも、人生の子守歌のように感じられる古い昔の歌に共感する心もわからないではありません。
タイパとかコスパとかいって、息せき切って走り回ることに、誰もが少し疲れたのではないかと思ったりもするのです。
最近のアメリカの移民嫌悪の傾向にも、首をかしげる感じがします。かつての若きアメリカも、そろそろ白秋期にさしかかったのかな、と感じるのは私だけでしょうか。
歳をとるということは、ふつう考えられているほど残念なことではありません。
当然、身体のおとろえにともなって、さまざまな悩みも出てくるでしょうが、また、若い頃にはなかった余裕も生じてくるものです。
〈青春を謳歌する〉
という言い方はありますが、
〈白秋を謳歌する〉
というような表現はありません。しかし、周囲を見回していると、まさに〈白秋〉や〈玄冬〉を謳歌していらっしゃるかたも少なくない。
〈老医の春愁〉も悪くないものだな、と感じる今日この頃です。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》先日、講演の仕事で秋田へいってきました。ちょうど竿燈の祭りの最終日とあって、各地から見物客も押しかけて大変なにぎわい。祭りというのも、人生を慰める大事なものだと感じたものでした。