〔特別対談〕養老孟司さん × 伊藤弥寿彦(生物研究家)さん 『古事記』の「花鳥風月」・前編 およそ1300年前に記された『古事記』に登場する生き物を、生物研究家・伊藤弥寿彦氏が21世紀日本に訪ね歩き、『
古事記の博物図鑑』を上梓しました。「草創期の日本人が触れていた自然を、いま目の前に見せてくれる。歴史・自然に関心がある人、必読の書。」と推薦文を寄せる養老孟司氏は、長年の「虫屋」仲間。「古事記と自然=花鳥風月」について、お二人に語り合っていただきました。
「鎮守の杜」と「虫屋」仲間
「神の森」から『古事記』の世界へ

山幸彦、トヨタマビメを祀る和多都美(わたづみ)神社。
── 伊藤さんが『古事記の博物図鑑』を作られた経緯には、養老先生とのお付き合いもかかわっていると伺いました。伊藤 そもそものきっかけは「鎮守の杜」の虫に惹かれ、何の虫なのかと調査しているうちに、この本まで辿り着いたという感じです。NHKで明治神宮と伊勢神宮の森の番組を、同時に作ったことが大きいですね。明治神宮の森は、人がつくった森であり、百年近く放っておいたので、どこに何がいるのか誰も知らなかったところです。そこで虫を調べて、「虫屋」仲間の養老先生にも出演していただきました。
養老 無理矢理、連れて行かれたのです(笑)。
鎌倉のご自宅に養老孟司さん(右)を訪ねて談笑する伊藤弥寿彦さん(左)。
伊藤 基本的には、仕事では養老先生となるべくご一緒したくないのです。あくまでも「虫屋」仲間であって、仕事には引き込みたくない。だけど、明治神宮の森は面白いから来ていただきました。また一方、伊勢神宮の森は世田谷区と同じほどの広大な面積で、しかも太古からある森です。普段は入れない森に2年間、入り浸って撮影しました。やはり「鎮守の杜」は面白い。周囲が開発されても「神の森」ということでほとんど手を加えられることなく、その土地古来の自然が残されていることが多いのです。
養老 春日大社の裏山も「鎮守の杜」ですね。
伊藤 春日山は、日本で数少ない原生林です。素晴らしい虫がいっぱいいるのです。ですから、この『
古事記の博物図鑑』は「鎮守の杜」から生まれた本なのです。
養老 ご苦労様です。こういうことをやる人はいないでしょう。
──『古事記』に登場する動植物と鉱物の種類を、6年もの粘り強いフィールドワークによって特定し考察しています。おそらく、こういう視点から『古事記』の本を作った人は唯一無二だと思います。伊藤 養老先生と奄美大島へ一緒に行ったときに撮った写真も、掲載されています。『古事記』には、怪物・八岐大蛇(やまたのおろち)の目が「赤かがち」のようだった、と書かれています。
『古事記』で八岐大蛇(石見神楽『大蛇』〈石見神楽亀山社中〉より)の目のようだったと描写される「赤かがち」とは?
「赤かがち」はホオズキだといわれていますが、一般的なホオズキは、大陸から平安時代に入ってきた植物だと思います。しかしホオズキにはいろんな種類がありますから、何かふさわしいものがあるはずだ、と日本中のホオズキを探しました。
ホオズキ。
そして奄美大島のメジロホオズキが一番、八岐大蛇の目のようでした。これがふさわしい! と写真を撮っていたとき、その横には養老先生がいたのです。
奄美大島で見つけたメジロホオズキ。
養老 それで騒いでいたのですね。ほとんどヘビイチゴに見えますね(笑)。
古代から繫がる身近な自然『古事記』を「花鳥風月」の視点で眺める

『古事記の博物図鑑』に登場する「花鳥風月」。そにどり(カワセミ)、勾玉(まがたま)、このはな(ヤマザクラ)、秋津(トンボ)。
養老 『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)の語りがミソだと思っています。どうして物語にしているのかというと、昔のことを覚えておくためには、こういう形にするのが一番よいのです。人間は、過去のことを物語にしないと忘れてしまいます。世界的にそうであり、語りは、覚えておくための形式です。
伊藤 そもそも「古い事を記す」ということですから。
養老 日本は、大陸からいろんな人が来て住み着いて一つの国になっています。だから3000年くらい前は、アメリカ合衆国みたいだったのではないでしょうか。移民がたくさん来て、それで仕方ないから「和をもって貴しと為す」、喧嘩ばかりするではない、と教えた。しかも土地が狭いところに人が大勢いるから、そういうところで暮らすノウハウを作ってきたのです。その始まりが『古事記』ということです。
伊藤 『古事記』にはいろんな生き物もたくさん出てきていまして、この本でも100種類以上取り上げています。ただし、虫は少なく、トンボと、ウジ、ハエ、カイコ、スズメバチ、シラミ、ムカデ、セミくらいです。ほとんどが害虫みたいな扱いで、美しいチョウを愛でるとか、そういう感覚ではありません。しかし、トンボは例外的によく出てきます。古来、トンボは秋津と呼ばれ、日本のことを秋津島ともいいましたから。
養老 日本にはトンボが多いからです。大森貝塚を発見したエドワード・モースが日本見聞記『日本その日その日』の中で、日光・中禅寺へ旅行に行って、トンボがぶつかってくる、こんなにトンボの多い国はないと書いています。そのうえ、田んぼも作っていますから、もうトンボだらけになってしまって……(笑)。
ですから、日本を「豊秋津島(とよあきつしま)」とか、「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国」というのは、渡来人の表現なのです。大陸は乾燥していてカランカランですから。それに比べて、こんなに湿気た土地……、ということです。
伊藤 古代はすごい湿地だったと思います。だから『古事記』にも、アシとか、ガマとか湿地に生育する植物がたくさん出てきます。
──古代の人たちが感じていた自然というものを実際に追体験して、何か感じるものはありましたか?伊藤 私は『古事記』を「花鳥風月」の視点で眺めてみたのですが、基本的には出てくる動物、植物の名前は今もそのままです。しかし、例えばアシカのことをミチ、ハマグリのことをウムガイ、サメのことをワニといったり、違うものもあるのです。これを今の種でいうと何になるのだろう? また、例えばネズミにもいろんな種類がありますから、厳密にいうと何ネズミだろう? と突き詰めていきました。すると、定説が違うのではないか、ということもいくつかあって、それにはかなり興奮しました。本居宣長が何だかわからないと書いているものを突き止めた、と思っているものもあるのです。
(後編へ続く)
養老孟司(ようろう・たけし)1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業、同大学院博士課程修了。東京大学名誉教授。専門は解剖学。著書に『唯脳論』(青土社)、『バカの壁』『身体の文学史』(新潮社)など、社会時評から科学論、文学論まで多数。
伊藤弥寿彦(いとう・やすひこ)/生物研究家1963年東京都生まれ。セント・クラウド州立大学卒業(動物学専攻)後、東海大学大学院で海洋生物を研究。自然番組ディレクター・昆虫研究家として世界中をめぐる。NHK『生きもの地球紀行』『ダーウィンが来た!』シリーズほか、『明治神宮 不思議の森』『南極大紀行』『プラネットアース』『伊勢神宮 光降る悠久の森に命がめぐる』など作品多数。初代総理大臣・伊藤博文と、易断家・高島嘉右衛門は曽祖父にあたる。
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天岩屋戸の前で啼いた長鳴鳥とは? 八岐大蛇(やまたのおろち)の目に似ていたという「赤かがち」の実とは? アマテラスが身につけていた勾玉(まがたま)の材質は? およそ1300年前に記された、現存する日本最古の書物『古事記』に登場する動・植・鉱物を、生物研究家である伊藤弥寿彦氏が現代日本に訪ねた圧巻の博物誌。

映像ディレクターでもある著者自らが撮影した1000点近いビジュアルは、古代人の豊かな自然観を実感させ、新しい『古事記』の世界が広がります。本居宣長以来の定説と異なる独自の解釈なども交え、知的刺激に満ちてめっぽう面白い! 後世に伝えたい新たな『古事記』本の誕⽣です。・
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刊:世界文化社
定価:6,600 円(本体6,000 円+税)
B5/変型判/上製/464ページ
ISBN:978-4-418-24211-5