介護という“役割”ができた喜び。さまざまな工夫で問題解決
義母の世話が始まったとき、城戸さんは40代前半。「私は仕事で何も残せていないのではないか。役に立っているのだろうか」と自信を失いかけ、うなだれて帰宅する毎日でした。ちょうどそのタイミングで生じた介護。「私にも役割がある」と頼られる喜びを感じ、できるだけのことをしようと張り切ったといいます。
07年に本格的に同居が始まると、日常生活の中でさまざまな工夫を凝らしました。朝なかなか起きられない義母に、毎朝、蒸しタオルで顔と体を拭いてあげることをルーティンにしました。「さっぱりして気持ちがよくなると、すっと起きてくれるのです。これは大成功でした。貴重品はまとめて金庫に入れ、“大事なものがない”と家じゅうを探し回るときは、“金庫の中にありますよ”と教えてあげると安心します。私が先回りして、母が恥をかいたり、困ったりしないように気をつければたいていのことは大丈夫なのだなとわかりました」。
義母はそんな城戸さんにいつも「ありがとう。悪いわね」と感謝と労いの言葉をかけ、たびたびプレゼントをくれました。
「よかったら使って」と義母が可愛らしい新品のパンツを城戸さんにプレゼント。「実の娘になったようで、嬉しい出来事でした」。イラスト/城戸さん
なかでも城戸さんが嬉しかったのは、パンツ。「ちょっと来て」と手招きされて部屋に行くと、義父が生前、義母のために買っておいたたくさんのパンツが広がっています。「よかったら使って。新品だから」とピンク色のパンツを2枚差し出す義母。「パンツをあげるなんて他人にはできない。私を実の娘のように思ってくれている! 一番の思い出に残るプレゼントでした」。
私は母から勇気づけられた。介護は一方通行じゃなかった
プレゼントにまつわる思い出には苦いものもあります。義母が両手いっぱいに石鹼を抱え、満面の笑みで「あなたにあげるわ」と持ってきてくれたときのこと。つい「それはお母さんの洋服がいい香りになるように私が入れておいたものなんですよ」と明かしてしまうと、義母の顔がサッと曇り、「ごめんなさい、そんなこともわからなくなっちゃったのね」と落胆して部屋に戻って行ったのです。「あのときの表情が今も忘れられません。かわいそうなことをしてしまった。素直にありがとうと受け取っておけばよかった」。この出来事が、看取りから8年近く経った今も決して小さくない後悔として心に留め置かれている──。そんな繊細な優しさを持つ城戸さんがそばにいた日々は、義母にとってどれだけの安らぎに満ちていたことでしょう。
心に残る会話
車椅子を押す私を「大変でしょう?」と気遣って
義母「悪いわね、代わりましょうか?私が押してあげるから、あなた、座りなさいよ」
真亜子さん「……大丈夫ですよ」
義母「そう? じゃあ、私の膝の上に荷物を置いてちょうだい」
──いつも本気でそういってくれるのです。認知症が進んでも、最後まで気遣いを忘れない人でした。 絵日記を久しぶりに読み返してみて、城戸さんはある大事なことに気がついたといいます。「当時私は、母のために絵日記を書いていると思っていました。でもあらためて読んでみると、母が私にしてくれたことや母がくれた言葉をたくさん書いていたんです。ああ、私が一方的にお世話をしていたのではなかった、私も母に勇気づけられ支えられていた──。本当に、天使のような人でした」。最後の言葉に城戸さんの“母”への愛が溢れていました。
介護で学んだ3つのこと
1 人と会うとき、より丁寧に向き合うようになったいつなくなるかわからない命。「またね」と別れても二度と会えないかもしれません。誰かと会うときは、その瞬間をより大事に過ごすようになりました
2 “老いとは何か”を身をもって教えられた言葉だけではうまくイメージできなかった“老い”の実態を、身近に見せてくれました。私自身、老いていく覚悟ができたように思います
3 身近な人が笑顔でいることが幸せなのだと気づいた以前は目標を達成したり成功することが幸せだと思っていました。でも、違う。身近な人が喜んでくれることが幸せなんだ、と気づきました
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