人は変らない
先日、タクシーに乗りました。
行先を言って、道順を丁寧に説明したら、
「イツキさんですね」
と、走り出しながら言われました。
変な帽子もかぶっているし、髭ものびている。おまけに杖までついているのですから、そう簡単にわかるわけはないだろうとタカをくくっていたのです。
「どうしてわかったの?」
と、たずねると笑って、
「しゃべりかたがね。すぐにわかりましたよ」
「ふーん」
なんとなく納得がいかない。若い頃に九州を出てから、すでに七十年以上たっているのです。
「九州弁のイントネーションがね。独特ですよね」
と、追い討ちをかけてくる。
「そうかねえ。こっちは普通にしゃべっているつもりだけど」
「いや、いや」
ドライバー氏、愉快そうに笑って、
「若い頃、ずっと深夜放送きいて走ってましたからね。ひと声きけばバッチリわかる」
苦学生だった頃
私が上京したのは、二十歳のときです。九州福岡の高校を卒業した春でした。
昔でいう苦学生として、住込みで働きながら、ときどき教室へ通うアルバイト生活でした。今でいう配達の仕事が主でした。
クリスマスや暮れの時期には大変です。デパートなどの贈答品を走り回って届けなければならない。
順路帖という、配達用の地図はあるのですが、実際には入り組んだ露路などあまり役には立ちません。
そこで、地元の人にいろいろたずねることになる。丁寧に挨拶をして、質問するのですが、相手がきょとんとして、あまり役に立つ返事が返ってこないのです。
最初は、
〈東京の人って不親切だな〉
と思ったりもしたものですが、そのうち何度かきき返されるうちに、相手に私の言葉がよく伝わっていないらしいと気づきました。
そのことを仲間の都会育ちの大学生たちに話したところ、皆に笑われてしまったのです。
「そりゃあそうだろうさ。きみの早口の話は、ぼくらだって半分くらいしか理解できないもの」
「それ、どういうことですか。ぼくは文法的に、間違った言葉づかいはしていないつもりだけど」
「でも、きみが何を言ってるのかわからないときが、しばしばあるのは事実だよ」
と、先輩の大学生が言うと、全員が苦笑するのです。
「要するにだね」
と、先輩はとどめを刺すように断言しました。
「問題はアクセントと、それからイントネーション、つまり抑揚が全然違うことだな」
「はあ」
相互理解の壁
言われてみれば、九州弁はあまりアクセントを重視しません。前後の文脈で「金」と「鐘」、「柿」と「牡蠣」を自然にききわけるのです。
〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉
どちらかといえば、九州弁は全体にフラットです。抑揚というものが、ほとんどなく、〈立て板に水〉といった調子で一気にしゃべります。
〈アイ・ラヴ・ユー〉を昔の福岡の女性が早口でささやくと、
〈うちはあんたのこつすいとー〉
と、いった感じになる。とても小説には書きづらい表現です。しかし、それだけに深い情緒もあるのですが、私自身、いわゆる標準語をしゃべっているつもりで、まったく東京人には理解不可能な日本語を使っていたらしい。
しかし、アクセントやイントネーションの違いが、これほど相互理解の壁になるとは思ってもみませんでした。
私は父も、母も、九州福岡の人間です。ひと言で福岡といっても、さまざまです。正確には九州福岡の筑後地方の出身というべきでしょう。
筑後と書いて「チクゴ」と読むのは標準語です。地元では「チッゴ」と発音していました。
「北原白秋も、廣松渉も、チッゴの出身バイ」などと言って嬉しがっていたものでした。
上京したのが昭和二十七年、いまから七十年以上も昔のことです。
しかし、この年になっても九州の訛りが抜けないというのは、どういうことでしょうか。
それからはタクシーに乗って余計なことはしゃべらないようにしています。
「若い頃、深夜ラジオでね、あんたの──」
などとハンドルから手を放して、うしろを振り向きながら運転されるのはまずいからです。
人は変らないものなんですね。
五木寛之(いつき・ひろゆき)
《今月の近況》先日、泉鏡花文学賞で金沢に行ってきたのですが、当日なぜかオシッコが出なくなって大弱り。地元の病院でお世話になって事なきをえたのですが、前立腺の肥大による尿道の圧迫が原因とか。男性も歳をとると、いろいろあるもんですね。