カルチャー&ホビー

五木寛之さんが語る【こころのレシピ】あなたは最近、泣いたことはありますか? 

2024.05.10

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撮影/有乃衣里彩

あなたは最近、泣いたことはありますか?

〈笑う門(かど)には福きたる〉
という言葉は、むかしから耳にタコができるくらいに聞かされてきた言葉です。

いつもニコニコして笑いを絶やさぬようにしていると、おのずと幸福がおとずれてくる。そんなたとえですが、本当かな、と、ふと思ったりもします。

しかし、この〈笑い信仰〉は圧倒的です。今の世の中には笑いが満ちあふれている。テレビからは、常に笑いが洪水のように流れでてきますし、笑うことの医学的効果を語る専門家の意見も多い。いまほど人びとが笑うことを大事にしている時代は、これまでになかったような気がしないでもありません。


しかし、その一方で、泣く、ということはどうでしょうか。

泣くことはマイナスか

〈泣きごとを言うな〉
〈メソメソするな〉
などという言葉は、かつては耳にタコができるくらいに聞かされたものです。当時はご丁寧に「男だろ!」という文句が添(そ)えられていました。

笑うことはプラス志向で、泣くことはマイナス、というのは、今も変らぬ考え方、感じ方のようです。

しかし、私はそういった考え方はおかしいと思います。 

人は泣くから不幸になるのではない。どんなに耐え忍ぼうと思っても、それができない事情があるから泣くのです。生きるということは、本当に大変なことなのです。

また、もらい泣き、ということもある。他の人の悲しみがわがことのように身にしみて、思わず涙する。

明治、大正、昭和の三代にわたって活躍した偉大な民俗学者に、柳田国男という人がいました。むずかしい研究書だけでなく、『遠野物語』などという民間伝承の本も書いているので、お読みになったかたもいらっしゃるかもしれません。

この柳田さんが(先生とか呼びたくないのです)、面白いことを言っている。
『涕泣史談(ていきゅうしだん)』という文章の中にでてきます。
「近ごろあまり日本人が泣くということをしなくなったように見うけられる」と、いった意味の言葉だったと思います。

昔は「泣く」ということは、日本人の生活の一部だった。泣くべき時、泣くべき場において、ちゃんと泣くことは社会人の常識だった。

それが、最近、あたりを見回すと、ほとんど泣く風景がみあたらない。日本人が泣くということをしなくなったとすれば、それははたして良いことであろうか。

手もとに本がないので、柳田さんの意見を雑にまとめると、そういうことになります。

泣かなくなった日本人。

必ずしも、そうは言えないでしょう。しかし、時代の表面だけを見ますと、たしかに笑いはプラス、泣くことはマイナス、といった景色が広がっています。

泣く力の効用

あなたは最近、涙を流して泣いたことがありますか?
そうきかれると、
「そういえば私、この前は、いつ泣いたんだろう」
と、考える人のほうが多いのではないでしょうか。

私自身もそうです。カフェや居酒屋では、二、三分おきに大爆笑しているグループをしょっちゅうみかけます。バラエティや、仕事の場でも、つねに笑いはあふれている。一見、すこぶる健全に見えるこんな風景のなかに、
「はたしていいのだろうか」
という柳田さんのつぶやきがきこえてくるような気がしてなりません。

笑うことは大事です。人間は笑うことで他の生物と区別されてきました。最近の研究では動物も笑うらしい。

また、森が笑う、風が笑う、などと敏感に自然の呼吸を感じる人々もいます。

笑いの効用、というのは言うまでもありません。健康のためにも、対人関係においても、自然に湧きでる笑いは〈百薬の長〉です。

しかし、涙を流して泣くことも、また、笑うこと同様にすさんだ心をうるおし、乾いた体をよみがえらせる力をそなえていることを忘れないようにしたい。

泣くことも、また力なのです。人はちゃんと泣くことで逆境から起ち直るエネルギーをもらうこともできる。

昔の物語りのなかには、体を投げ出して号泣する人物の姿がしばしば登場します。

〈泣く力〉
泣ける、ということは、まだ心と体が、乾ききっていないことの証拠です。

笑うことの大事さをちゃんと踏まえた上で、それと同じくらいに泣くことを忘れないようにしましょう。涙といえば、旧世代の遺物のように思われがちですが、そうではありません。涙のない笑いなどで、福がやってくるわけはないでしょう。

あなたは最近、泣いたことがありますか?
五木寛之(いつき・ひろゆき)

五木寛之(いつき・ひろゆき)

《今月の近況》
先日、岡山へ行ってきました。坪田譲治文学賞という賞の贈呈式で講演するためです。坪田譲治は、児童文学者として知られていますが、ほかに数多くの文学作品を遺した作家です。次は金沢に行きます。いまだに落ち着かない日々が続きます。

この記事の掲載号

『家庭画報』2024年05月号

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