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工藤美代子さん綴る【快楽(けらく)】第17回「ママ活とパパ活の間を彷徨っても(前編)」

2023.10.11

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潤う成熟世代 快楽(けらく)─最終章─ 作家・工藤美代子さんの人気シリーズ「快楽」の最終章。年齢を理由に恋愛を諦める時代は終わりつつある今、自由を求めて歩み始めた女性たちを独自の視点を通して取材。その新たな生き方を連載を通じて探ります。前回の記事>> 連載記事一覧>>

第17回 ママ活とパパ活の間を彷徨(さまよ)っても(前編)

文/工藤美代子

まったく自分の勘の悪さが情けなくなる。お互いによく知っている間柄のつもりでも、相手の気持ちをちゃんと察していないことが私にはしばしばある。それだけ感受性が鈍いのだろう。

前回に登場してくれた澄子さんの心の深層で何が起きているのかを、私は理解しているつもりだった。68歳の彼女の旦那さんは病気のため左半身が不随になった。その介護と家事と仕事をこなすのは、精神的にも肉体的にも、かなりの重荷になっている。さらに旦那さんだって心細いから、何でも澄子さんに依存しているように見えた。まあ、男なんて、みんなそんなものよと、私は無責任に澄子さんを励ましたりもした。


いや、自分では彼女の一番の良き理解者のつもりだったのだ。なにしろ、私の夫も最近になって週に3日の透析治療を始めた。そして、まったく動かなくなった。お腹が空いたら、ダイニングテーブルに座っていれば、妻が何か見つくろって食べ物を並べてくれると信じている。しかし、私だって忙しい時や疲れている時もある。たまには夫も、自分で今日は何を食べようかと考えないものかと腹が立つ。料理をしろ、皿洗いをしろとは言わないが、食事のメニューくらい考えてくれても罰は当たらないだろう。

だが、いくら私が不機嫌な顔を見せても、夫は平然として待っている。もしも私が仕事をしていなかったとしても、やっぱりこれは不公平だと感じる。「私はね、電気炊飯器じゃありませんよ」というセリフが喉まで出かかるのだがいつも我慢する。夫はいかにも身体が辛そうだ。動くのが難儀なのだろう。そう考えると哀れにもなる。妻以外に頼る人がいない男なんて、しょせんは無力な存在だ。

実は私は、いたって単純だが奇妙な信念を持っている。それは困っている人を見かけたら、自分に何ができるかをまず考えてみようということだ。もちろん、何もできないこともあるけれど、ちょっと手を差し伸べたら事態が改善するケースも多々ある。重い荷物を持った老人の手助けとか、長患いの知人に美味しいものを送るとか、被災地への寄付とか、せいぜいそんな程度だけどできる範囲でお手伝いをする。そうすると、きっと来世では自分も誰かに助けてもらえる気がする。そんな保証はどこにもないのだが、目の前にいる夫に辛い思いをさせたら、あの世で罰が当たるに違いない。だからなるべく夫を邪険に扱わないようにと心掛ける。

若い人に言ったら、馬鹿みたいな迷信だと嘲笑されそうだ。実際にあの世に行ったことがある人はいないのだから、誰にもわからない。でも、生命は現世だけでは終わらないだろうと考えると、ずいぶん気持ちが楽になった。人によって違うけれど、結局、宗教とか神様とかって、死ぬ時の心構えを整えるためにあるんじゃないか。どうすれば死後の世界を信じられるのか。それは来世が必ずあると信じることだと気づいたら、死ぬことも別段怖くなくなった。

どうにも鬱々としてはいるものの、なんとか平穏な毎日を過ごせるのは、あまり現世で多くを望まなくなったからかもしれない。

そんな私のところに、澄子さんからどうしても相談したいことがあるという連絡があった。コロナが流行し始めてから4年くらい、友達と会う回数は数えるほどしかなかった。この前、いつ澄子さんと食事をしたのかも、今はもう思い出せないほどだ。

それでは、銀座のウクライナ料理の店でランチをしようと約束をして、受話器を置く間際に澄子さんの声が聞こえた。「ねえねえ、2時間くらいは大丈夫かしら?」。

「もちろんよ」と答えて電話を切ってからはっとした。彼女のセリフっていかにも現役っぽいなあと。仕事に追われている人が発する質問だ。私は同世代の友人たちと食事をする時に、そんな質問はしないし、されることもない。みんな暇だからである。慌てて次の場所へ向かう必要がないのが年寄りの毎日かもしれない。


さて、久しぶりに銀座に現れた澄子さんは、とても若々しかった。旦那さんの介護に追われている女性には見えない。私より5歳も若いし、もともと美人だったからか。あるいは彼女が働く業界がお洒落なのだろうか。

「あら、そんなことないわよ。私なんて頰っぺたがどんどん落ちてきている。もうブルドッグよ」と澄子さんが否定する。だが、その次に発した言葉は私にはメガトン級の衝撃だった。

「今日はね、工藤さんに大事なお願いがあるの」とまず言って、ぐっと身体をこちらに乗り出すと小さな声で続けた。

「あのね、もしも私が急に死んだら、とにかくすぐに工藤さんに電話してって、よく会う人には頼んであるのよ。食事中ならいいわよ。でも、ホテルの一室で心臓麻痺ってことだって、私の年齢になればあり得るでしょ。その時に救急車を呼ぶのと同時に工藤さんの携帯に電話するように言ってあるの。わかるでしょ? 私の言葉の意味」

「え? あなた心臓が悪いの?」

後から思い出すと、なんとも間抜けな返答をしたものだ。ただ、少し弁解させてもらうと、私はその日は澄子さんと夫の介護について愚痴を語り合うつもりでいた。なぜ女性だけが家事全般を引き受けなければいけないのか。夫たちが病気なのは可哀想だけれど、介護がすべて妻に丸投げされるのは理不尽だ。そんな話をすると思っていたら、いきなりホテルの一室で、もし自分が死んだら、なんて言い出した。彼女は体調が悪いのだろうかと早とちりしたのだ。

「別に心臓なんて悪くないけど、不測の事態って、いつなんどき起きるかわからないじゃない。だから防波堤が必要だと気づいたのよ。それでお願いしておこうと思ったの」

ここでようやく私はピンと来た。そうか澄子さんには不倫相手がいるのだ。それを大前提として喋り始めたのだろうけど、私はまったく想像もしていなかった。だって彼女は68歳だし、旦那さんは病気だし、仕事は忙しいし、そんな人が不倫なんてする暇があるのだろうか。

怪訝そうな私の顔を見て、澄子さんはすべてを察したようだ。声のトーンを落として説明をしてくれた。しかし、この説明も私には理解が難しいものだった。プラトーノフ作の『チェヴェングール』くらい難解である。

旦那の介護問題はひとまず置くとする。そんなことよりも彼女の頭を独占していることがある。それがママ活とパパ活の問題であり、澄子さんはその両岸の間を彷徨っているらしい。

なるべく簡潔に、人生の意味などをあえて問わないで、彼女の話の内容をさっくりと述べてみたい。まず、3年前にルイ君という若い男性と恋仲になった。別にホストクラブのホストではなくて、普通のサラリーマンだ。仕事の関係で知り合って、意気投合した。ルックスも良いし賢い青年なのだが、まだ32歳だから経済的には澄子さんの方がずっと豊かだ。したがって食事代もホテル代もすべて澄子さんが負担する。彼があまりにもダサくて安い背広を着ているのを見ると、つい澄子さんはボスやアルマーニに連れて行って、お洒落な衣服を買ってあげる。

特に不満があるわけではないのだが、旦那さんの介護が始まって、もし自分が働けなくなったら、ルイ君とはしょっちゅう会えなくなるなと思った。その時に、ルイ君のしていることってママ活なのかしらという疑問が湧いた。別にセックスへの対価を払っているわけじゃない。普通の不倫カップルのつもりでいた。ルイ君は独身なので、その分は罪悪感も少なかった。

自分が若い男の子にもてると思うと嬉しかったし、ルイ君はお金が目的で自分に近づいているとも考えなかった。しかし、一カ月に30万円以上はルイ君のために使っている。それはルイ君のママ活だと誰かに言われたら、けっして否定はできない。そこで澄子さんは考え込んでしまった。この関係をいつまでも続けるのは不毛ではないかと。

旦那さんの介護もあって、ルイ君と会うのがそれほど頻繁ではなくなった去年の秋に、澄子さんの前に津川氏が現れた。

(後編に続く。連載一覧>>

工藤美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。

この記事の掲載号

『家庭画報』2023年10月号

家庭画報 2023年10月号

イラスト/大嶋さち子

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