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工藤美代子さん綴る【快楽(けらく)】第16回「ビジネスケアラーの悩みは深い(後編)」

2023.09.15

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潤う成熟世代 快楽(けらく)─最終章─ 作家・工藤美代子さんの人気シリーズ「快楽」の最終章。年齢を理由に恋愛を諦める時代は終わりつつある今、自由を求めて歩み始めた女性たちを独自の視点を通して取材。その新たな生き方を連載を通じて探ります。前回の記事はこちら>> 連載記事一覧>>

第16回 ビジネスケアラーの悩みは深い(後編)

文/工藤美代子

もともと、ここ数年は家事で手一杯になり、私の仕事量は減っている。その上、長年つまらない本ばかり書いてきたから、売れないのは当り前。細々営業中という感じだったが、それでも原稿を書く時間を捻りだすのがえらく難しくなった。

売れっ子の作家さんの中には、ちゃんと夫を自宅で看取った過程を書いて、それがまたベストセラーになったりしている人もいる。才能があって商売上手なのだろう。羨ましいがとても真似は出来ない。


もはや私は仕事をすべてやめる時期に来ているのかと考えていた時に、ちょうど澄子さんから電話があったのだ。

「そりゃあね、私だって自分の年齢を考えたら、仕事から手を引くべきかもしれないけれど、でもそれっておかしいと思うのよ。なんで働く女を社会は応援してくれないのかしら」

珍しく澄子さんが激した調子で喋っている。いつもは冷静な女性だし、理知的な判断を下すからこそ、彼女の仕事は長年にわたって世間に高く評価されてきた。しかし、どうやら我慢の限界だったらしい。

30分以上、滔々(とうとう)と電話口で不満を述べる彼女の論点は概ね次のようになる。

日本社会でも近年は介護問題を心配する人口は多い。ヤングケアラーという言葉は、誰も世話をする人がいないため、親の介護に明け暮れざるを得ない子供たちを指す。それはけっこうな人数になっているらしい。だから社会問題化して新聞や雑誌によく取り上げられる。勉学の機会を奪われる子供がいてはならないと政府も本気でこの問題に取り組む姿勢を見せている。ただでさえ少子化が深刻な日本では、せっかく生まれた子供たちに静謐で豊かな環境を整備してあげるのが大人の責務だ。

それは理解しているが、なぜか女性のビジネスケアラーの困難は、ほとんど報道されないし問題視されていない。



「親の介護なら、それこそ昔からみんながやってきたことだし、さまざまな選択肢があると思うの。お金の準備とか、きょうだい間での話し合いとか、公的機関からの補助もあるでしょう。もちろん大変だけど、それが必ずしもお嫁さんにだけ押し付けられる仕事ではなくなったわよね。
ところが、今では工藤さんくらいの団塊の世代だって、それこそ巨大な塊のままで、いっせいに年を取ってしまっている。多様性の時代だから、まだ現役で働いている人もいるし年金生活の人もいる。でも、介護を必要とするのはどうしても男の人が多いみたい。男性が年上の夫婦というのが当り前だったからでしょ。それを妻が家庭で見るのは妻側にしたらすごい負担よね」

言われてみると私と同年齢の友人たちの旦那さんは、80歳前後が多い。それに、もう旦那さんは亡くなって独りの女性もけっこういる。つまり、夫に最期を看取ってもらえる妻の方が少ないのは事実だろう。

「うちみたいに夫婦揃って60代後半なんて、一番厄介なケースよ。世間では私が仕事をあきらめて介護するのが当然という目で見るのよ。だけどね、もちろん収入の面でもまだ仕事は続けたかったし、それ以上に私にとっては現役で働くことは生き甲斐だったの。だって、私にしか出来ない仕事だし、それが誇りなんだもの。
だから主人が倒れて介護が必要になった時は目の前が真っ暗になった。息子夫婦はずっとアメリカに行ったきりで、孫なんて日本語も話せない。それぞれキャリアを持っている息子と嫁にパパの介護をするために帰国してくれなんて言えるわけないし、専門の看護師さんや介護士さんを雇うのは大変な費用がかかる。すると私が仕事をやめるしかなくなるのよ」

澄子さんは、どんどん追い詰められている感じだった。甲高い声が時々苦しそうに詰まってしまう。

もっぱら相槌を打っていると、澄子さんの辛い気持ちがこちらにも伝染する感じだ。そもそも仕事と家庭に掛けるエネルギーの比重はどのくらいの割合かわからない。だが、どちらが消失しても空しくなるだろう。

はっと気がついて彼女に尋ねた。

「旦那さんは、澄子さんにお世話してもらいたいの? それとも介護士さんとかお願いして、澄子さんには仕事を続けて欲しいわけ?」

それによっても対応が変わってくるはずだ。わが家の夫は私に、さっさと仕事をやめてくれと5年前くらいから言っていた。収入は少なくなるが、二人で預金を切り崩し、今もらっている年金を大事に使えば、人並みの暮らしくらいはなんとかなる。もう海外旅行もレストランでの食事もしなくていい。一汁一菜で慎ましく暮らすのが年寄り夫婦の正しい生き方だぞと、真面目な顔で説教するのである。

ふん、そんな退屈な生活を誰がするもんかと私は反発していた。もはや老い先が短いのだから買いたいものは買うし、行きたいところへは行くぞと、心の中では悪態を思い切りついていたが、やっぱり実際の行動範囲はどんどん狭まりつつあった。まさに介護包囲網である。

「うちの場合はね、もともと同業者として知り合って結婚したから、その部分は文句を言わないのよ。料理にもうるさくないしね。ただ、一つだけ誰にも言えない悩みがあるの。だから工藤さんに電話したわけ」

そろそろ電話を切ろうかという雰囲気になった頃には、1時間が過ぎていた。これから悩み相談って何だろうと私はちょっと身がまえた。

気配を察して澄子さんは慌てた調子になり、早口で喋り出した。

「うちの主人はとにかく真面目な人でね、40年くらい一緒に暮らしているけど浮気したことなんて一度もないのよ。それは妻としては有難いんだけど、身体に障害があって思うように片方の手足が動かせなくなってから、奇妙なことを言いだしたのよ」

「はあ、奇妙って、どんなこと?」

私が尋ねると想像もしていなかった返事が戻って来た。そのまま書くと、あまりに生々しいので、少し私の言葉で整理してみたい。

初めに書いたように澄子さんは68歳である。私よりは少し若いけれど、夫婦関係はもう惚れた腫れたの時代を通り越しているはずだ。お互いに相手をよく知り尽くしている唯一無二の存在くらいの感じか。

そんな澄子さんに、ある日、ツインのベッドで寝ている旦那さんが、就寝前の添い寝をしてくれと頼むようになった。澄子さんは驚いたし、躊躇もした。正直なところ、仕事で疲れていたから早く自分のベッドの方で、のびのびと寝たかった。

しかし、旦那さんは執拗に懇願するのだという。抱きしめて欲しいと頼まれる。

「私が仕事と家事でどれだけ疲れているかわかっているの? 甘ったれるのもいい加減にしてよ」と喉まで出かかるのだが我慢する。なにしろ相手は病人である。夫婦として、そんな酷い言葉はぶつけられない。承知はしているのだが、嫌悪感から逃れられないのだと彼女は言う。

たとえば私の夫がそんなことを切望したら、いい年なんだし、やめようよと言ってしまう気がする。でも、澄子さんの旦那さんの気持ちもわかるのだ。妻に抱きしめてもらって安心したい。それは自然な感情だろう。澄子さんだって、そこは理解しているからこそ困っている。

女性のビジネスケアラーの悩みは多種多様だ。それらは深くて重いのだ。そしてこれからの時代に、女性が直面する新しいテーマでもあると思った。介護のためのロボットが開発されているとよく耳にする。もしそうなっても、病人は人の温もりや触れ合いを求め続けるものなのかもしれない。

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工藤美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。

この記事の掲載号

『家庭画報』2023年09月号

家庭画報 2023年09月号

イラスト/大嶋さち子

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