しばらくしてオイラは歩けるようになった。初めて見るもの聞くもの食べるもの、なんでもかんでもめずらしい。小枝をくわえたり、ちょうちょを追いかけたり穴を掘ったり、花のニオイを嗅いでみたり。変な虫を食べた時は口の中が痛くなって泡をふいたっけ。かあちゃん、世界は広いんだね。楽しいんだね。怖いんだね。オイラたち親子には家なんてないから、いつも二人でてくてく歩いたよ。
ある時、草むらでうとうとしていて気が付くとかあちゃんがいなかった。オイラは不安になってくんくん泣いたんだ。すると空から黒くて大きい鳥がやってきて頭をしつこく突いたよ。痛いよ、痛いよ、かあちゃん、オイラ食べられちゃうよ。かあちゃんが走ってきて鳥を追い払ってくれた。ああよかった。かあちゃんがくわえてきたパンのかけらを食べている間、かあちゃんはオイラの頭の傷をなめてくれた。
でもいつまでも血の匂いがするんだ。かあちゃんの足だった。かあちゃんはクルマに撥ねられたらしい。足が折れてぶらぶらしているんだ。かあちゃん痛いだろ。かあちゃんごめんね、ごめんね。ありがとね、ありがとね。
雨が降ると、かあちゃんはオイラが濡れないようにおなかの下に入れて一晩中立っていてくれた。そんな時、かあちゃんはずっとぶるぶる震えていたよ。寒いのかな。足が痛いのかな。それとも両方かな。かあちゃんなおるといいね。ねえ、なおるよね。かあちゃんはオイラの食べ物を探しに行く以外はじっとしているようになった。もともと痩せていたかあちゃんの身体はもっと細くなった。
その日もオイラはいつものように草むらでかあちゃんを待っていたんだ。でも、いつまでたっても、かあちゃんは帰ってこない。オイラは勇気を出して、かあちゃんを探しに人間の町に出た。雨に濡れて冷たいけれどオイラだってもう赤ちゃんじゃないんだ。オイラは道路で寝ているかあちゃんを見つけたよ。いつもみたいに口にパンをくわえている。きっとオイラのごはんだね。泥んこだった。どこからか血が出ているみたい。かあちゃん、起きて。こんなところで寝ていると危ないよ、轢かれるよ。
かあちゃんは次の日になっても起きなかった。目を開けたままいつまでも動かなかった。いつも温かいかあちゃんの身体は地面みたいにひんやりしてた。人間が来たのでオイラは電柱の陰に隠れたよ。人間はかあちゃんを箱に入れてクルマに乗せるとそのまま行ってしまった。オイラはあわてて追いかけたけれど、かあちゃんを乗せたクルマはどんどん小さくなって見えなくなってしまった。
びしょ濡れの体のままとぼとぼ歩いていると、雨が上がって空に大きな虹が出た。それを初めて見たオイラは、そこにかあちゃんがいるような気がして一生懸命に走ったよ。でも、走っても走っても、たどり着くことはできなかったんだ。
日が暮れてからオイラはかあちゃんと暮らした寝床に戻った。そこは使われなくなったバス停で、夜露にあたらない程度のおんぼろの屋根がある。もちろんかあちゃんがいるはずはなかったけれど、かあちゃんの匂いがまだ残っていたからさみしくなかったよ。
夜明け前に何かの気配で目が覚めた。オイラは前にかあちゃんに教わったように木の根っこの隙間に隠れた。怖かった。でもなんだか懐かしいおっぱいの匂いがしたんだ。かあちゃんだ、かあちゃんが帰ってきた。そう思って飛び出ると、見たことがない黒くて大きな犬がいた。そしてオイラと同じような子犬が２匹こっちに向かって歩いてきて遊ぼうよって誘ったんだ。黒いおばちゃんはオイラにもごはんをくれた。オイラはいっしょについていくことにしたんだよ。
オイラたちは毎日歩いた。トコトコとどこまでも歩いて旅をした。オイラたちはノラ犬だから、お腹がすいたら落ちている食べ物を探すしかなかった。でも黒いおばちゃんは人間から食べ物をもらうのが上手だった。首にはボロボロの首輪が付いていたからきっと昔に人間といっしょに暮らしたことがあったんだね。
ある日オイラたちが遊んでいると遠くからおばちゃんの叫ぶ声がした。大変だと思ってみんなで走っていったけれど、おばちゃんは誰かに連れ去られた後だった。オイラたち３匹は途方に暮れたけれど、励ましあってまた旅を続けたんだ。
