【スーパー獣医 野村潤一郎先生の動物エッセイ】TATARI

第31回　TATARI

文／野村潤一郎〈野村獣医科Ｖセンター院長〉

家人さえも滅多に立ち入らないその旧家の広い裏庭は、代々にわたる禁忌の場所のようにも見えた。北側で日当たりが悪いだけでなく、地形的にもじめじめしているためにまともな植栽が育たず、まるで大昔の首切り場のように湿った赤土が露出している。その周囲には背が低くて、猫背の男のように見えるヤツデの木が取り囲むように自生していて、ぬるぬると光る葉が “おいでおいで” をするようにいつまでも風に揺れていた。


ほどなくして数人の使用人たちによって古い洋服簞笥が運び出され、家主である鬼の形相の老婆の一声により火が放たれた。簞笥はあっという間にめらめらと燃え上がり、紅蓮の炎に包まれた。ごうごうぱちぱちと炎の音が強くなると同時に、がりがりと木の板をひっかく爪の音が混じるようになり、それは激しさを増し、やがてぎゃおん、ぎゃおんと断末魔の叫びが辺りに響いた。簞笥には犬が閉じ込められていたのだった。

辺りは煤につつまれ、濛々（もうもう）とした黒煙が鉛のような曇天の空に立ち上った。居合わせた者たちはその時、はっきりと聞いた。煙にかすんだ空の彼方から「八代祟るぞ、覚えておれ」と地鳴りのような大声がしたのである。使用人たちは恐ろしくなって手を合わせたが、家主の鬼婆はかっと目を見開いて天を睨みつけたという。

どういう経緯でこうなったのかは定かではないが、その後この一族の血筋は凄惨な不幸が続き、あっという間に没落の一途を辿ったらしい。これは私が幼少の頃にある老人から聞いた話である。空から聞こえた大声の主が犬なのか、それとも別の何かなのかはわからぬままだが、恐ろしい話ではある。

昔、とある動物病院にお邪魔した時の話である。その院長は巷では誠実で動物思いの良い先生として通っているが、本当は臨床経験が全くない、ただの大酒飲みだった。彼は、尻の青い見習い獣医を好条件で釣って大勢集め、そんな坊やたちに患者を丸投げして、未熟極まりない学芸会のようなグループ診療をさせていた。

技術を伝授する師匠がいなければ、若造たちはない知恵を絞りながら烏合の衆と化す。そして、毎日当たり前のように起こる誤診や過剰診療で動物が死んでも平気でいるような集団が誕生した。その結果、若獣医たちは言い訳の技術だけは超一流になった。つまり院長は単なる経営者であり、クズ医者を大量生産する張本人だったのである。

それはまさに病院という名の地獄だった。彼らは小学生が連れてきた捨て猫を手厚く迎えるふりをして心臓に空気を注入して生ごみに出し、輸血の供血用の犬を汚く狭い檻に閉じ込め、モノ扱いで飼い殺した。若い獣医師たちは飼い主に無断で死んだ動物の棺桶を開けその死体で技術練習をしたし、獣医師免許のないスタッフが手術を行うのも日常だった。数え上げたらきりがないほどの悪の所業に、私は怒りを通り越して吐き気を覚えた。

動物たちの無念が渦巻くそんな病院の廊下で私が見たものは……あろうことか天井まで届くほどの巨大な犬の幽霊だった。真っ白で丸々としたまるで雪だるまのような “それ” は頭の中に響く声で私に言った。

「ここはあなたが来る場所ではないから早く帰りなさい」

その時はこの病院の実態に耐えかねた自分の潜在意識が見せた幻影だと認識したが、やはりあれは本物で、無念の死を遂げた動物たちの魂だったのかもしれない。というのも、やがて件の院長はインポテンツと配偶者の浮気を苦にして自殺未遂を繰り返し、とうとう精神科に通うようになり、それだけでなく、血縁者が次々とありえない不慮の事故死を遂げ、さらに自慢だった息子も、DNAの父親鑑定で他人の子と判明し、数年後には違法薬物に手を出す最低のろくでなしに育って行方不明になってしまったからだ。

その病院は現在も存続しているが、相変わらずわけのわからない事故やトラブルが続いて悲惨な状況だと聞いている。今もなお「八代祟るぞ」の途中経過なのだと思う。正に現代のTATARIである。