カルチャー&ホビー

工藤美代子さん綴る【快楽(けらく)】第4回「ホテルのルームキー(前編)」

2022.07.14

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戻って来ると森さんと篠田氏は無言で見つめ合っていた。そして、テーブルの上に置いてある篠田氏の手には、ホテルのルームキーが握られていたのである。それを見て、私はひぇっと心の中で声を上げた。この人は今夜のためにホテルの部屋まで取ってあったのだ。

私の表情を読み取った篠田氏は、ジロリとこちらを睨んで言った。

「今日は僕は仕事でこのホテルにいるので、今チェックをするのに部屋番号を確認してたんだよ」


「そうですか」と答えて私は森さんの方を見た。軽く微笑んだ森さんが私の肩をぽんと叩いた。

「美味しかったわね。そろそろ私たちは帰りましょう。ご馳走様」と言って、さっさと立ち上がってしまった。

帰りのタクシーの中で、森さんが語ってくれたところによると、篠田氏と妻はもう10年以上も別居していて、今は双方が弁護士を立てて離婚の協議をしている。つい一カ月ほど前に友人の家で篠田氏に会った。それ以来、彼は頻繁に電話をくれる。

いつも深夜で、「眠れないんだよ」というのが第一声。彼女も夜中に執筆していることが多いので、適当に話し相手になるが、長話をしてはいられない。そうしたら、どうしても会いたいと篠田氏が言い出したのだそうだ。

当時の私には森さんに「で、あの男の人はどうするつもりなんですか?」と尋ねるだけの才覚はなかった。

あきらかに自分に強い興味を示している男性から食事に誘われて、もし断ったらそれですべて終わるだろう。忙しいと告げるのは、あまりにも素っ気ない対応だと森さんは思ったのか。といって、一人で行けば必ず彼に口説かれる。向こうはぐいぐいと押して来るタイプだ。それがわかっているので、人畜無害な私を連れていくことにしたのだろう。

だから、私は森さんを守らなければと思い込んだ。なんという浅はかさだったろう。そんなに必死になって守らなくても良かったのだ。森さんは作家として、男女の駆け引きを楽しみたかったのだろう。この後もう一度、私は篠田氏と森さんのデートに同伴した。もちろん、篠田氏はあまり嬉しそうな顔をしなかった。

(後編に続く)

工藤美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家。チェコのカレル大学を経てカナダのコロンビア・カレッジを卒業。1991年『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『快楽』『われ巣鴨に出頭せず――近衛文麿と天皇』『女性皇族の結婚とは何か』など多数。
イラスト/大嶋さち子

『家庭画報』2022年7月号掲載。
この記事の情報は、掲載号の発売当時のものです。
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